「沖縄県庁廃止」は過激な意見ではない

2019年05月25日 06:00

低下する都道府県の役割

地方自治について最近、出版された書物に『日本の地方政府 1700自治体の実態と課題』(中公新書)がある。同書では都道府県について以下のように述べる。

「都道府県の強化は、行政効率性の観点から正当化されうる。しかし、代表の論理からは都道府県の存在は、説明が難しい」

この指摘に対して現役の地方自治体職員、地方議員、地方行政研究者で説得的反論が出来る者がどれほどいるだろうか。ほとんどいないのではないか。

副題の「1700自治体」という表現も印象的である。「1700自治体」が市町村を指していることは自治体関係者でなくてもわかるのではないか。

「住民との距離」「現場の数」などを考えれば都道府県と市町村のどちらが「地方行政」の担い手なのかは明らかだろう。言うまでもなく「地方行政」は市町村によって担われるものである。

かつてほどではないが政治やマスコミの世界ではしばしば「地方分権」が唱えられることがあるが、そのほとんどが「国から地方へ」の権限移譲の話である。

しかし地方分権は「国→地方」に限られず「地方→地方」の権限移譲、要するに「都道府県から市町村へ」の権限移譲も盛んである。

「道州制」などスケールの大きい話は正直、ついていけないが「都道府県から市町村へ」の権限移譲は実際的であり地方自治の本質が「住民自治」であることを考えれば市町村に権限移譲されることが望ましく、その方が住民の利益にもなる。

地方分権・地方自治の究極は市町村で住民サービスが自己完結することである。

もちろん現実は警察行政など幾つかの分野では複数の市町村に影響を与えるものについては都道府県に一定の役割が求められるが、これはあくまで「行政効率性」の観点からの要請に過ぎない。

地方分権・地方自治が主張されればされるほど都道府県の役割は低下していくだけであり、この流れが止まることはないだろう。

合併がない都道府県

都道府県を考察するうえで好材料なのは合併の有無である。

市町村はときおり大規模な合併が行われる。最近の例で言えばいわゆる「平成の大合併」が実施され3000以上あった自治体が1700強までに整理された。

市町村合併の理由は様々だが少なくとも市町村は地域の人口動態に直接的影響を受ける主体であり、社会情勢の変化に応じた体制が求められる。市町村合併とは「地域の現実の変化」に合わせた対応である。

しかし都道府県には合併がない。戦後日本で都道府県の合併は実施されていない。都道府県の合併がない理由として、その歴史性が強調されるが、やや突き放した言い方をすれば都道府県は「地域の現実の変化」の影響を受けにくいからである。

そしてこの合併の例を見ても地方行政とは市町村が担うものであることが理解できるだろう。

しかし都道府県のネームバリューは市町村より圧倒的である。地方公務員志望者に「都道府県と市町村のどちらに就職したいですか?」と問えば、軍配は間違いなく都道府県に上がるだろう。都道府県はその存在感に対して役割は小さい。

現在、米軍基地の辺野古移設工事に対する沖縄県の対応を巡り様々な意見が出されているが、この問題は「沖縄と本土」の関係だけではなくその役割を低下させている都道府県の問題でもある。

「沖縄県庁廃止」は過激な意見ではない 

沖縄県サイトより:編集部

沖縄県が叙勲推薦書の提出を忘れたことが話題になっている。

沖縄県、叙勲推薦書の提出怠る 候補者1人受章逃す(毎日新聞)

叙勲推薦は例年の業務であり、それを立て続けて忘れたことは驚く。

これについてはアゴラでも既に記事がある。

沖縄県まさかの叙勲推薦遅れ:確信犯でないことを祈る

同記事では「玉城知事への忖度」を推測しているが、具体的に玉城知事の何に対して忖度したのか想像してみても良いだろう。忖度したのは玉城知事がこだわる辺野古移設反対についてであり、もしかしたら申請が間に合わなかった被推薦者は米軍基地の辺野古移設に賛成していたのかもしれない。

「想像が過ぎる」「ひどい妄想だ」と憤る読者もいるかもしれない。

しかし今の沖縄県が行政の中立性を放棄するようなことを採らないと言い切れる論者はどれほどいるだろうか。

最高裁に違法と判断されているにもかかわらず辺野古埋め立ての承認撤回を主張する沖縄県なら「担当者のミス」を装って「政治的報復」を行うことは必ずしも否定できない。

沖縄県が辺野古埋め立ての違法な承認撤回を主張し続ける限り、こうした話は拡散し沖縄県の行政への信頼は失っていくだけだろう。

また沖縄県は辺野古埋め立ての承認撤回を主張しているが、そもそも埋め立てで最も影響が出る名護市を差し置いて沖縄県の承認だけで決定して良いのかという議論も成立する。

地方自治の観点から言えば沖縄県の関与は小さければ小さいほど良い。沖縄県は本来、期待されている以上の役割を果たそうとしていないか。

現在の沖縄県の行政の混乱の原因に地方分権に伴う「都道府県の役割低下」が含まれていないということはないだろう。

どうも安倍政権も米軍基地問題では沖縄県が文字通り「ボトルネック」の役割を果たしていると判断しているようで、一部ではあるが沖縄県を介さず直接、市町村を支援しようとしている。

政府、沖縄県を通さない交付金を新設 直接市町村に配分 県の自主性を弱める懸念(琉球新報)

これに対して沖縄メディアたる琉球新報は「自主性を後退させるな」と猛反発しているが、これほど理解が困難なものはない。

何故、県を介することが沖縄の「自主性」に繋がるのか。琉球新報が主張する「自主性」とは沖縄県庁の自主性ではないか。

地方の現場を担っているのは市町村である。県を介さない方が良いに決まっている。そもそも琉球新報が主張する「自主性」と地方自治の本質である「住民の利益」はなんの関係があるのか。自主性に拘り地域住民の利益が損なわれてしまっては本末転倒である。

琉球新報は「自主性」と「住民の利益」の相関関係を示すべきではないか。

確かなのは米軍基地問題を参照する限り沖縄県庁は住民の利益に貢献しているとは言えない。県民の対立・分断を煽りただただ違法な主張しているだけである。

筆者は「沖縄県庁がなくても沖縄の地方行政は成立するのではないか」と問われれば反論に窮してしまう。地方分権時代の今日、「沖縄県庁廃止」は過激な意見ではない。

地に足のついた議論を

都道府県の役割が低下していくことは避けられない。しかし「都道府県廃止」が現実的選択肢ではないことは明らかだろう。

都道府県は選挙を経てなる首長・議員を抱えており「都道府県廃止」は純民主主義的見地で言えば肯定出来ない。

一方で「都道府県廃止」に伴う民主的損失は市町村の民主主義活性化で補えば足りるという考えも成立しよう。

別に筆者も「都道府県廃止」を主張したいわけではない。地方分権時代における地方自治体の役割変化を認識し、その特性に応じた役割を果たせばそれで結構だと考えている。

沖縄県、何よりも玉木知事に求められているのは「一帯一路構想」に関心を寄せるとか夢想にふけるのではなく県の役割を客観視し地に足のついた議論を行うことであり、その先にこそ沖縄の輝かしい未来があるのではないか。

高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員

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