「百田尚樹現象」ニューズウィーク日本版が面白い

田村 和広

対価を払うに値する記事なら売れる

ニューズウィーク日本版6月4日号に、スペシャルレポートとして「百田尚樹現象」という記事が掲載された。取材・執筆は石戸諭氏だ。5月31日午後10時現在、アマゾンの「人文・社会・政治の雑誌 売れ筋ランキング」でNo.1となっている。売れていると考えて良いだろう。発売にあわせ百田氏自身がツイートで告知しており、これにより販売部数に一層のブーストがかかっていることも想像される。

一読者としては、この“「百田尚樹現象」で雑誌が売れる現象”に、下降傾向が顕著な雑誌業界が生き残るためのヒントがあると感じる。当該特集記事には、百田尚樹氏が好きな人も嫌いな人も「対価を払って読むに値する」大きな価値があるのだ。

百田尚樹氏を「タブー」扱いするメディア

百田氏原作の映画をテレビで放映する際は、「原作:百田尚樹」という部分は隠される。百田氏の本が売れてもテレビ番組の「本の売れ筋ランキング」的コーナーでも意図的に排除される。例えば百田氏の本が上位にランキングされる週には、百田氏の読者とは違う年齢層を対象にした書店からリポートしたりしている。百田氏を上位から降ろす“工夫”だ。

新聞でも、最近の書評欄ではどんなに売れても取り上げられない一方、何等か問題が発生すると喜び溢れる紙面で大きく報じられる。要するに百田尚樹の良い情報は「タブー」なのだ。

ところが、ニューズウィーク日本版では敢えて百田尚樹氏を特集した。記事の中にもリベラル側の人達から「取材に値しない」という意味の牽制が記述されている。しかし、石戸氏は百田氏に誠実に取材し、同誌もその論評を掲載した。これこそ、報道のあるべき姿なのではないだろうか。

見解の相違で敵味方識別をせず、「まずは事実を正視しようと真摯に向き合う」この姿勢は、メディア側も読者・視聴者側もともに守るべき姿勢であろうと考える。

石戸諭氏のプロフェッショナルな仕事

石戸諭氏の取材を受けた百田氏本人はツイッターで「私個人は、記事に対する不満は大いにありますが、ライターは誠実な仕事をしたと思います。」(令和元年5月27日)とコメントしている。これは、記事に対する本人からの「品質保証」と言える。この保証のお陰で、「あまり歪みや虚偽記載はないだろう」と安心して購読することができた。

石戸氏は、“「リベラルメディア」と言われる毎日新聞で10年程記者経験があり”(P22上段)と自身のキャリアの一部を開示している。また文脈から、石戸氏は御自身を「リベラル」側と自認しているようであり、文中でも「百田と私は政治的な価値観や歴史観がかなり異なる」と表現している。

そんな石戸氏は、考えに違いがある百田氏を「まずは良く知ろう」と、かなり時間をかけて勉強している。例えば、(P22上段)「百田の実像に迫るべく、私は彼の著作を全て読み、過去のインタビューや雑誌の論説も可能な限り集めた。その上で、百田を重用する出版、テレビ関係者に取材を申し込み、3時間半にわたる本人のインタビューも収録した」と事前準備について説明している。

冷静に判断する上で、主張の異なる著作を複数読む作業は重要だ。私も心掛けているが、今回多数の著作全てを事前に読むというのは、極めてきつい行動だったろうと推測する。この点だけでも、石戸氏の記事は百田氏の評価と符合する。

記事について

今回の主題は「雑誌が生き残るヒント」なので、内容の論旨自体は論考もしないし賛否も留保する。あくまでメディアとしての外形を扱いたい。

リベラルについての認識として次の文が記載されている。

百田現象から見えるのは、日本の分断の一側面であり、リベラルの「常識」がブレイクダウン―崩壊―しつつある現実である。

これは「真のリベラルなら…」という見方をもちつつ「普通のリベラル」の動静を論じているのだろうか。よくわからないが「リベラル」の定義が不明なので面白い一文である。

3時間半のインタビューで、本人とのやりとりが2頁強(約4000文字前後)というのはやや少ないと感じる。もっと多くの情報を手に入れたはずだが、記事の文脈に合わない部分は削除されたとみるのが自然だろう。また、幻冬舎の見城徹氏やDHCテレビ社長の山田晃氏のインタビューも誠に貴重だ。惜しかったのは、日本国紀で編集者だった有本香氏のインタビューが無かったことだ。近くで共に仕事をしている有本氏ならば、百田氏の姿をより深く描写してくれたであろう。

全体としては、当然ながら一定の編集意図を感じる。

記事終盤(P36)で『日中歴史共同研究報告書 第2巻』が登場し、それまで保った格調が一気に崩れたと個人的には感じた。「歴史」という言葉を中国が使う時は「政治的見解」の要素が強く「歴史的事実」の要素は弱い。また、日本側の責任者は、歴史研究者というよりは時の政権に重宝され、自分の恩師から「曲学阿世」とまで一喝されている人物である。これらの点を考慮すると、この書籍への吟味も読者にフェアに提供する必要があった。政治性を強く帯びた根拠を採用するならば、それが妥当である論拠を提示して欲しかった。それがあればこの記事のフェアネスが低下せずに済んだであろう。

百田尚樹現象の分析は、結局核心に触れていない。百田氏の「心」に言及していないのである。石戸氏の言葉で言うならば、そこはリベラル側からは『不可視』だったのだろう。とはいえ真摯に向き合う論評は読む価値が十分にある。百田氏を不可解な存在として見ないこととしている層にも、「紫外線カット」された情報なので一定程度の百田像が伝わっただろう。

なお、現象面に焦点を当てているので当然だが、せっかく読破した作品の数々への論評がない。石戸氏のような文章のプロが読むとどう感じるのか、それも知りたかった。

SNS(ツイッター)という画期的インフラ

石戸氏の「対象を知る努力」で惜しまれるのは、ツイッターの観察が不足していることだ。少なくとも直近1年は見直しておくべきであった。できれば高頻度で放たれる「奔放なつぶやき」と「ファン・アンチ双方とのやりとり」等、ツイッター上の百田氏の行動を「ライブで観戦」すれば、本当の彼の姿にもっと肉薄できただろう。

ツイッターでの期待感醸成は、百田氏の本が売れる源泉の1つである。これは百田氏が専業作家ではなくメディア業界人としても活躍する「兼業作家」としての手腕である。この観点をもっと深く分析すれば、新聞・雑誌・書籍といった、「文章を創造して対価を頂く」ビジネスの新展開が期待できるのではないか。現状では、フォロワー数やブログの閲覧数で作品の販売予測をすることには力が入っているようだが、もっとアクティブな販売促進活動に応用するためのヒントではないか。

「出版物が配布されるはるか前に、大部数の予約が入る。」これは百田氏の本に附帯する事実である。「作家自身が傷を負いながら」「自らの言葉でファンやアンチと交流する」活動が確実に一定の需要を創出している傍証だろう。

従来、作家とファンとの直接交流は、書店が開催するサイン会や講演会が主だった。これらには資金や規模の限度とタイムラグがあった。しかしSNSの発展により、時間的制約と空間的隔たりが大きく緩和された。インターネット空間と現実の空間との混合戦略で、言論空間が活性化される可能性が出てきたことも事実だ。

結論

事実を歪めず角度を付けず、妥当な報道をしてくれるならば、一度は離れた人達も、紙媒体やテレビに戻ってくることもあるだろう。

報道の即時性について、紙媒体はインターネットにかなわない。しかし文章のプロフェッショナルが書いた本物の調査報道ならば、逆にインターネットの皮相的なニュースはとてもかなわない。本物の調査報道には価値があるので対価を払ってでも入手したい。

今後も引き続きSNS等インターネットは進化を続けるだろう。それがもたらす社会変化は想定の外を行くだろう。そして、この変化に対応することが生き残る鍵であろう。

田村 和広 算数数学の個別指導塾「アルファ算数教室」主宰
1968年生まれ。1992年東京大学卒。証券会社勤務の後、上場企業広報部長、CFOを経て独立。