ココイチ、奇美、ヌヴー、根自子…それぞれのストラディバリウス

高橋 克己

ストラディバリウスは17世紀後半から18世紀にかけてイタリアのストラディバリ親子が製作したヴァイオリンなどの弦楽器の名称。グゥアルネリなどと共に特段クラシック音楽に興味のない者でも一度はその名を耳にしたことがあるに違いない一挺数億円もする名器だ。

先般、カレーチェーンCoCo壱番の創業者の資産管理会社が楽器貸与事業で20億円の脱税をし、過少申告加算税を含め計約5億円の追徴金を納税したことが報じられた。記事などによれば、貸し出しの対象となっているのはストラディバリウスなど約30挺の弦楽器。

「CoCo壱番屋」の創業者・宗次徳二氏(宗次コレクション公式サイトより:編集部)

税理士の勘違いで楽器を減価償却していたらしい。事業の用に供していても100万円を超える楽器は減価償却できない(趣味の個人所有は事業用ではないので100万未満でも償却不可)。篤志家の創業者が有望な演奏家に無償で貸与していたらしいので、加算追徴とはお気の毒という外ない。

日本音楽財団もストラディバリウスなど世界最高峰の弦楽器21挺を内外の若手演奏家に貸与する事業をしていると同財団のサイトに載っている。ついでに財務諸表を見ると、固定資産として楽器100億円を計上している。1挺約5億円ということか。減価償却していないと注記がある。

許文龍氏(奇美実業公式サイトより:編集部)

日本では他にもサントリー財団などあるが、台湾でも奇美実業の創業者で親日家の許文龍が奇美博物館で楽器を貸与をしている。許氏自身も腕が立つ演奏家で、筆者も拝聴したが来客にも気軽に腕前を披露なさる。高雄の大学でヴィオラを指導している知人の教え子も奇美博物館から楽器を借りている。

ストラディバリウス親子の作品はヴァイオリン520挺を含め約600挺現存しているといわれる。18世紀以降の著名なヴァイオリニストの延べ人数は520人で収まるはずがない。勿論、ストラディバリウス以外の名器もあるが、例えばグゥアルネリなどは200〜300挺と数が少ないようだ。

数に限りのある歴史的名器の多くが篤志家の寄付などで設立された財団によって買い取られ、有望な演奏者に代々貸与されている。このようなシステムの存在によって著名な演奏家が育ち、先人が生み出した偉大な芸術を後世に引き継いでゆく。篤志とはまさにこういうことを指すのだろう。

そこでジネット・ヌヴーと諏訪根自子のことになる。筆者がクラシック音楽をよく聴くようになったきっかけは、30年ほど前にFMラジオから流れる妙なるヴァイオリンの調べを聴いたこと。曲の終わりに演奏者の名がジネット・ヌヴーだと知った。残念ながら曲名は聞き逃した。

ヌヴーが1935年に15歳でヴィエニャフスキ国際コンクールに優勝した時、次席だったひと回り年長のダヴィッド・オイストラフをして「彼女は悪魔のように弾く」といわしめたことや、1949年10月演奏旅行に米国へ向かう飛行機事故で夭折したことなどが筆者の興味を惹いた。その知的な美貌も。

ジネット・ヌヴー(musicMeより:編集部)

パリで1919年に生まれたヌヴーは11歳でパリ音楽院に入り、ヴァイオリンで最優秀賞を得た後、13歳で出たウィーン国際コンクールでは4位だった。が、この時審査員だった名手カール・フレッシュに見込まれて4年間無料で彼の指導を受け、1935年に先述のコンクールで最優秀賞を獲った。

評判を得たヌヴーは大戦前夜の世界中を演奏して回り、38~39年にはベルリンでレコーディングもした。大戦中の中断を経て戦後活動を復活したが、49年の3度目の米国公演に向かう飛行機がアゾレス諸島に墜落、30年の短い命を終えた。遺体が見つかった時、ヌヴーは愛器のストラドを両腕に抱え込むようにしていたといわれる。

幸いにしてかなり良い音質の彼女の音源が多く残されていて、you tubeでそれらのほとんどを聞くことが出来る。中でも得意としたブラームスの協奏曲では、亡くなる前年の5月にイッセルシュテット指揮の北ドイツ放送交響楽団とライヴ録音した盤が魂の籠った名演奏だ。

知的な美貌のヴァイオリニストといえば、日本にもヌヴーとまったく同じ時代に、天才少女といわれた演奏家がいた。諏訪根自子という名のそのヴァイオリニストの生年は1920年1月。ヌヴーが1919年8月生まれだから二人は偶然にも同学年。

諏訪根自子(Wikipediaより:編集部)

音楽好きの両親に生まれた根自子の才能に気付いた母は、ロシア革命を逃れて来日していた白系ロシア人小野アンナ(1890年-1979年)に師事させた。5歳でピアノ、10歳からヴァイオリンを始めたアンナは1917年、留学生の小野俊一と知り合い結婚するもロシアは革命の最中、翌18年に東京に向かう。

19年に俊太郎を儲け、同年輩の根自子共々ヴァイオリンを指導する。が、俊太郎が病死したことで夫婦関係が壊れて離婚、そして日本有数のヴァイオリン指導者となった。その経緯は根自子の生涯と神風号の快挙とを描いた深田祐介の「美貌なれ昭和」(文春文庫)に詳しい。

根自子は1927年に来日したアレキサンダー・モギレフスキー(1885年-1953年)の指導も受けた。モギレフスキーはモスクワ音楽院を首席で卒業し、ニコライ二世の宮廷楽団長も務めた大家で、通の中にはハイフェッツ並みかそれ以上に評価する者もいる。来日後は日本人演奏家の育成に努めた。

この時代のソ連の芸術家(に限らない)には、政治的な迫害から逃れて西側に亡命した者が少なくない。またナチスドイツの下でも面従腹背を余儀なくされたり、ナチに協力したとして戦後非難を浴びたり、また米国に逃れたりした音楽家(に限らない)が数多いた。

さて、根自子はアンナらの指導よろしきを得て腕を磨き、1936年ベルギーに留学し、その後パリでヴァイオリンを学んだ。大戦の勃発した1940年、パリの藤田嗣治や岡本太郎などが相次いで帰国する中、根自子は残り、6月のドイツ軍によるパリ占領時は日本大使館に避難したりなどした。

1942年暮れにベルリンに移り、駐独大使大島浩や後に根自子の夫となる大賀小四郎らの庇護を受ける。ドイツではクナッパーツブッシュ指揮のベルリンフィルと共演したり、1943年2月には生涯の愛器となるストラディバリウスをナチス党宣伝相のゲッペルスから贈られたりもする。

ナチスの宣伝活動に違いない。ソ連を追われた白系ロシア人のアンナやモギレフスキーに憧れてパリに来た根自子が、ナチスドイツの庇護を受けるとはなんと皮肉な巡り合わせか。が、根自子は日本の汚名返上ためにストラドを抱え、ソ連と米軍の攻撃を掻い潜ってスイスに行き演奏会をしてのける。

そしてドイツ降伏、連合軍に拘束された根自子は米国に連れて行かれ、近衛秀麿らと収容先のホテルで演奏会を開くなど束の間の休息を取る。1945年12月7日、愛器のストラドと共に浦賀に到着し、約10年間に亘る波乱の欧州留学を終える。この過程で妻ある大賀と恋に落ち後に結婚もする。

そのせいか、しばらく日本で演奏活動するも1960年以降は30年ほど音信を絶ち、伝説のヴァイオリニストとなる。90年代に内輪のコンサートやバッハの無伴奏ソナタ・パルティータの全曲録音など短期間活動した後に一線を退き、2012年9月にその波乱に満ちた生涯を終える。

同じ時代の欧州で共に美貌の天才ヴァイオリニストといわれた根自子とヌヴー、1936年にベルギーに渡った根自子の伝記にも、35年にコンクールを制したヌヴーの記録にも記述はないが、果たして二人は出会ったか。そして二人のストラディバリウスはいま誰が弾いているのだろうか。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。