悠仁殿下にご進講した半藤一利氏のある本での発言集

半藤一利氏が悠仁殿下にご進講したと耳にしていたところ、同氏のインタビュー記事が週刊フライデー6月28日号に載っているとのことで少しばかり目を通してみた。

紀伊国屋書店HP、NHKニュースより:編集部

上皇様の侍従から話があって応じたそうだ。秋篠宮殿下ご夫妻もご同席での2時間半ほどだったと。悠仁殿下からは「原爆がなぜ落とされたか」や「統帥権」についてのご質問があり、統帥権の漢字を宮様がお教えになったそうだ。半藤氏がご質問にどう答えたかは書いていない。

が、インタビューでは「昭和8年(1933年)以降、日本に外交は存在しない」、「先の戦争について日本も米国も悪いという論があるが、少なくとも戦争に至る過程の状況では日本が悪かったと私は思っている」などと述べているので、半藤氏がご進講で話したことの趣旨はおおよその見当がつく。

歴史の解釈は人それぞれだから半藤氏の歴史観はもちろん尊重される。が、悠仁殿下には、早い時期に加地伸行氏か佐瀬昌盛氏か平川祐弘氏辺りの正論執筆陣が改めてご進講し、半藤氏の話を中和なさるのが良いように筆者は思う。その理由を以下に述べる。

『昭和史』や『日本の一番長い日』などの著書があり『昭和天皇独白録』(文藝春秋)では「注」を書いた半藤氏だが、筆者は『歴代陸軍大将全覧』(全4冊)と『歴代海軍大将全覧』(何れも中公新書ラクレ)での半藤氏の発言が気になる。

同書は明治以降の陸海軍大将を秦郁彦らと座談で品定めする。半藤氏の大半の発言はごく真っ当だが、中には氏独特の、読む者が眉を顰めるような表現やまるで見て来たような物言い、或いはある種いい加減な発言が少なからずある。その事例を以下にいくつか引いてみる。

大村益次郎:この「西洋かぶれ」の大村を「神州の国体を汚す」として刺客が京都で襲撃し、重傷を負わせた。

西郷隆盛:天皇は西郷のことが気になってしょうがない。で、毎日酒ばかり飲んでますよ。戦争が終わると、大酒飲んで歌の会をやるんです。

有栖川宮熾仁親王:正直いってお坊ちゃまですから、軍事の采配を振るのは難しい。

山県有朋:(自ら作った軍人勅諭を)政治に関わって、もう徹底的に「お破りになった」ですね(笑)。

大山巌:決して茫洋ではなかったのですよ。…たいへん細かい計算をする人だそうですね。いつもソロバンを手にしてパチパチ弾くんですって。

寺内正毅:大山は茫洋としているからほとんど秘書官が差配したといいます。つまり寺内が大山を立てながら差配した。

北白川宮能久親王:突然、国際結婚するといっても聴許されるはずないです。親王の抵抗は続きますが、天皇が帰国を命じ、日本に戻ると親王は直ぐに婚約を解消しています。

川上操六:川上は…途中で薩摩軍に捕まり「きさま宗之丞じゃないか、叩き斬ってしまえ」といわれ、「斬れるものなら斬ってみろ」と応えると、相手が「こいつは剣の達人だからこっちが一人や二人じゃだめだぞ」と通したというのですが。(秦:その話は怪しいな…敵中突破ほどのことはなかったんじゃないの)。…悠々と通って行ったといいますよ。もっともこれは後世のお話なんですけどね。

西寛二郎:(西が負傷しても戦ったことに関し)この頃の人は強いんです。熊本鎮台の谷干城なんか、狙撃弾が喉を貫いても、何ともないと飛んだ軍帽を拾って悠然と被り直したとか。

樺山資紀:海軍大輔のとき川村純義(海軍卿)に仕えるんですが、川村は独断専行の人で、部下の信頼がないのです。そのとき樺山が緩衝帯となって川村独走の抑止役となった。

川村純義:勝が海軍卿のとき、もっぱら川村が海軍を切り回していたと話しましたが、この頃の川村の活躍には目を見張りますね。 (*川村は昭和天皇幼少時の養育係)

児玉源太郎:あの頃の参謀長はみな参謀を纏めていたと思いますよ。その後、参謀長がお飾りになってしまうんです。…(杉山茂丸の「児玉大将伝」を受けて)ホラ丸だから危ない話ですよ。

乃木希典:長州人にはそういう人が多いんですよ。感激家で純情で実によく泣くが、突然変わってしまう。極端から極端に走るような人が。

安藤貞美:酒を飲んで大言壮語する連中と違って、謹厳な教育者肌の人なんですね。

上原勇作:上原中佐が夏目金之助先生が教えているところへ入って来て、黙って見ていた。漱石は知らん顔をして「袖すり合うも多生の縁というが、多生とは何だかお前たち判るか」と生徒に入ったという話です。(秦:漱石と言葉を交わしているんですかね)。漱石は無視したようです。軍人嫌いだから。

一戸兵衛:この人は大酒のみだったようです。・・(上原勇作に対し)「あのフランスかぶれが」と一戸は内心思ったでしょうね。(笑)

秋山好古:(真之とは)ぜんぜん違います。好古は大変な大酒のみでしたが、真之が酒を飲んだという話は聞きません。

明石元二郎:明石の操行点はゼロだっていうんでしょう。とにかくどうにもならない奴だったそうです。

田中義一:(ロシア留学から帰り)ここでぐっと頭角を現し、長州閥の後継者的な位置を占めるようになっていくのだと思います。・・考えてみると統帥権を振り回した最初の男は田中なんですね。…毒を飲んで自決したという人もいますね。(原:天皇に叱られたのを苦にしてですか)。そうです。この説はちょっと格好いいですが。

吉田豊彦:(英仏が兵器の熟練工を戦線から戻した話を受けて)動員学徒にオシャカの部品を造らせたどっかの国とは違いますなあ。

林銑十郎:立派な八字髭を蓄えて一見堂々としていますが、「永田のロボット」、「ノーズロ将軍」などと良い評判は聞けないですよ。

本庄繁:天皇を本庄が「単なるバカ殿である」と思っていたのか、「事を起こせば天皇は言うことを聞く」と思っていたのか、その辺はちょっと難しいけど・・

寺内寿一:お坊ちゃんなんです。金払いがきれいでみんな奢ってしまう。

永野修身:これほど自分がすごい秀才だと思い込んでいる人も珍しい。終始一貫、海軍軍人として最高の秀才だと思っている。この強烈なる自己過信が間違っていますよ。…若い頃、頭脳明晰だった永野が若い奥さんを貰ってからうんと励んで(笑)、「ぐったり」になっていったそうですね。

米内光政:一見、鈍い感じがした。クラスの者には「グズ政」といわれていたそうです。

杉山元:(秦が「グズ元」といったのを受けて)「便所のドア」というのも、当時の便所のドアはどちらにも開くスプリング式でしたから。

塩沢幸一:酒は強かったでしょうね、なにせ信州の養命酒本舗の倅ですから。ロンドンに行く山本五十六に養命酒を山と持たせていますよ。

豊田貞次郎:政治好きなんです。…山本五十六次官に呆れられています。ところが、しっかりした世界観、戦略観はなくて、風見鶏なんだな。

朝香宮鳩彦王:(秦:結局、後添えは入ったのですか)。入ったんです。(秦:それは、元玄人ですか)。そうみたいですよ。本当かどうか知らないけど、元芸者だと聞いたことがあります。元玄人だって籍を一度偉い人のところへ移せばいいんです。

東久邇宮稔彦王:帰国が遅れた原因には、現地妻がいたとも、下痢を理由に明治天皇の陪食を断って大正天皇の逆鱗に触れ、臣籍降下を申し出たことがあり、大正天皇を避けたい気持ちがあったともいわれます。

以上、やはり中和が必要ではないかと思う。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。