沖縄慰霊の日

今日は令和初の「沖縄・慰霊の日」。

本土防衛の最前線として、20万人を超える犠牲者を出した壮絶な沖縄戦から74年。

当時、沖縄の民間人4〜5人に1人が命を落としたと言われています。

戦争体験者が年々減少し、日本人の脳裏から戦争の記憶が急速に風化する今も、国土面積の約0.6%しかない沖縄県には、 全国の米軍専用施設面積の約70.6%が 集中しています。

そのような沖縄の方々による多大なる犠牲と、あまりに過重で不平等な負担のもとに、日本の平和は今も保たれています。

その厳粛なる事実を、すべての日本人が真正面から受け止め、日本に暮らし平和で安全な生活を享受している一人ひとりが沖縄の事を我が事として考え、沖縄が現在も集中的に担わされている負担の軽減について真摯に取り組まねばならないと思います。

沖縄の痛みに目を瞑(つむ)ることは、日本の歴史に目を瞑ること。

過去の歴史に目を瞑る者に、未来を見晴るかすことはできません。

Gage Skidmore/flickr

しかし残念ながら、歴史における時計の針は、このところ世界各地で逆回転を始めているようです。

ポピュリズムの嵐に席巻され、声の大きい粗野で下品な政治リーダーが口汚い言葉で他者を罵るその姿は、あたかもジョージ・オーウェルが全体主義的ディストピアを痛烈に描いた『1984年』を見るようです。

『1984年』の描く社会では、一党独裁の政権下、党が打ち出す3つのスローガンに人々は洗脳されていきます。

戦争は、平和である

自由は、隷従である

無知は、力である

真逆の概念がイコールでつながってしまう不条理は、忖度が横行し、公文書や政府データがいとも容易く改竄されてしまう現在の永田町・霞が関では、もはや日常茶飯とも見てとれます。

「無知が力」とまでは認めたくありませんが、まともな感性や知性、論理性や正義感を機能させていては、現在の政権中枢ではとても生きては行かれないことを痛感します。

その象徴的な出来事が、安倍総理がトランプ米国大統領に送ったノーベル平和賞への推薦状です。

米国大使館のエルサレムへの移転、イランとの軍事的緊張、中国との経済戦争、移民・難民の排斥などなど、国際平和とは真っ向から逆行する行動を一貫して取り続けているトランプ大統領を、ノーベル平和賞に相応しい人物として、我が国のリーダーは推挙した訳です。

トランプ氏におもねれば、関税交渉で有利に働くからとか、日本はもともと安全保障的観点からすれば米国の「核の傘」の下にあって独立できていないのだから仕方ないといった、“現実的”なご意見もあるでしょう。

しかし、世界の平和と安定を根底から揺るがしているトランプ氏をノーベル平和賞に推挙することは、まさに「戦争は平和である」というロジックそのものを認めてしまうことで、それは人間としての「思考停止」を意味します。

人間の良心、良識に反するこのような行動を自国のリーダーが取ることにより、日本のイメージやプライドが中長期的に傷つけられる国家的損失は、関税交渉で手加減してくれるかもしれないという近視眼的国益に比して、計り知れないほど大きいと私は思います。

というような意見を標榜すると、『1984年』的社会では、「愛情省」の思想警察に連行され蒸発させられてしまいますし、データは即刻「真理省」によって削除・改竄されてしまいます。

この国で生きて行く子どもたちのため、「そんな日本には断じてしない!」という自分なりの覚悟を持って、沖縄慰霊の日の今日、この記事を書かせていただきました。


編集部より:この記事は、畑恵氏のブログ 2019年6月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は畑恵オフィシャルブログをご覧ください。