国防のパラドクスを乗り越えるために --- 丸山 貴大

2019年07月03日 06:00

9条活用派

憲法第9条について、無差別戦争観に基づき如何なる戦争も認めない絶対平和主義の立場にある又はその立場に近い者がいる。そのような人々は、武力によらない平和構想を実現するため、それを共有する国々との共同体を構築する必要がある。その大前提として、自衛隊の武装解除を行い、在日米軍を撤退させることは言わずもがなだ。

陸自サイトより:編集部

そして、自衛隊を警察力に引き下げ、既存の海上保安庁並の陸上、海上、航空保安組織に改編し、非軍事政策への転換をしなければならない。また、合わせて国際協調主義に基づき、平和維持活動に参加出来る組織を同時に保持することも考えられよう。畢竟、絶対平和主義者は地域の組織化という積極的な9条活用論者というプレイヤーなのだ。

違法性阻却事由

そのような論者が考えるように、国連憲章において戦争は違法となった。しかし、そこには自衛権が定められている。一般法により違法となっている行為であっても、特別法により違法性阻却事由が認められている。これは、国民の自己保存権を保障するためだろう。

ここにおける最大の問題は、自衛権行使により、交戦状態になれば、合法的に人を殺すことができるということだ。自衛権は「武力攻撃の発生」、「自衛の均衡性」、「自衛の必要・緊急性」等の諸条件の下で発動され、その行為は国際人道法(交戦法規)により統制される。しかし、法的にどうこうということではなく、倫理的な問題として人が殺されるという紛れもない事実から目を背けてはならない。

そのように思考していくと、我々は勝手な理屈や論理を展開して権利を主張してそれを守るため、物事の正当化を図っているのだ。例えば、人工妊娠中絶である。一方には胎児の生命権がある。そして一方には、女性のセクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(SRHR:性と生殖に関する健康と権利)があり、産むか否かの自己決定権を行使することができる。中絶を認めるということは、後者の権利を尊重することに他ならない。

そして、日本においては「母体保護法」(昭和23年法律第156号)の第14条において、

一 妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの

二 暴行若しくは脅迫によって又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの

に該当する者に対して、都道府県の区域を単位として設立された公益社団法人たる医師会の指定する医師は本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる。この規定は「刑法」(明治40年法律第45号)第212条から第216条における「堕胎の罪」という一般法の特別法であり、特別法優先の原則に基づき、条件を満たした中絶は阻却される。

そして、中絶の問題において「人を殺してはならない」という命題には胎児は含まれないということが明らかとなる。即ち、胎児は命あるものであり、生きとし生けるものであるが、人ではないのだ。生き物という包括的な枠の中に人も胎児も含まれるのだが「人を殺してはならない」という場合には、当然、胎児は含意されていないのだ。

国防のパラドクス

それでは、次の問いに答えてほしい。「子どもじみた愚問だ」「馬鹿馬鹿しい質問だ」と思う人がいるかも知れない。もし、答えられなければ、これほど愚かで馬鹿げたことはないだろう。

「人を殺してはならない」と言う人がいる。では、何故、死刑制度があるのだろうか。人を殺した者を殺すことは何故、正当化されるのだろうか。それは国家の行為だからだろうか。

何故、自衛権を行使して、合法的に兵士を殺傷できるのだろうか。人間が人間を殺傷することは何故、正当化されるのだろうか。国家の自己保存権を守る為に、やむを得ない行為だからだろうか。

何故、人工妊娠中絶制度があるのだろうか。胎児よりも母親の人権を尊重することは何故、正当化されるのだろうか。胎児はヒトとして見なされないからだろうか。

何故、人間は牛、鶏、豚、魚介類などを殺め、食すのだろうか。動物を捕食するために殺めることは何故、正当化されるのだろうか。人間の自己保存のために必要不可欠なことだからだろうか。

何故、人間は犬や猫を殺処分するのだろうか。人間と同様に命ある動物を殺処分することは何故、正当化されるのだろうか。街中に増えすぎ、人間にとって害獣だからだろうか。

そして、何故、人を殺してはならないのだろうか。それを正当化しようとは毛頭思わない。しかし、それを正当化する一方で、それに反することが正当化されている。このような現状をどのように受け止めればよいのだろうか。

何かと理由を付けて行為を正当化する。それは、政治的又は宗教的信念に基づくテロリストや確信犯も同様だ。しかし、それらは非難される。では、何故、テロは否認されて交戦は容認されるのだろうか。両者は自衛か否かによって線引きされる。即ち、一方には犠牲があり、その上に現状は成り立っていることになる。

国防とはまさしくこのようなパラドクスの塊なのだ。国を守らない場合でも、守る場合でも、犠牲者は出てしまう。それは何も守れていないことを意味する。畢竟、国防とは、結局は何も守ることはできず、ただただ辛いものであるのだ。

国防の大前提

そのような原理主義的な問題もさることながら、実質的且つ現実的な問題において日本は、国家構成要件たる領土、国民、主権の3つについて、何一つ守れていないことを改めて自覚すべきであろう。詳しくは触れないが、領土問題、拉致問題、日米地位協定の不平等問題は、国家を揺るがす重要な事案にも関わらず、解決への道のりは程遠いものに感じる。

遅々として進まない現状において、日本の独立は果たして守られているのだろうか。元い、それを守るべき軍の存在が国内法上は不在である日本は、外交努力を惜しむべきではない。また、その能力が著しく乏しいものであるとすると、それは軍の保持によって補完できるものではない。

軍を持つことにより、領有権の主張を翻したり、国民を返したり、日本を一人前として認めたりする程、弱腰な国々ではないだろう。軍は国の独立を守るが、今となっては時すでに遅しなのだ。既に起きてしまった諸懸案については、大人の政治的交渉力でもって解決の糸口を模索することが望ましい。これ以上、傷口に塩を塗るような行為は逆効果であり、軍の作用に反する。

そして、何より安全保障においては第一に、柔軟な外交政策により対外的な危機を回避するソフト・パワー。そして、第二に、切れ目のない国防政策により実際に武力攻撃があった場合にはそれを物理的に排除するハード・パワーことから成ると考える。その構成及び効力を再考し、交渉力と実戦力の均衡が保たれることを望む。

そして何より、国防のパラドクスに陥らないために、事前抑止及び予防が何より不可欠であることは声を大にして述べたい。各国との偶発的な衝突を回避するため、外交や文化的・人道的交流等、如何に非軍事的な取り組みが重要であるかを改めて考えたいものだ。それは、憲法前文において「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」した日本国民の責務である。

丸山 貴大 大学生
1998年(平成10年)埼玉県さいたま市生まれ。幼少期、警察官になりたく、社会のことに関心を持つようになる。高校1年生の冬、小学校の先生が衆院選に出馬したことを契機に、政治に興味を持つ。主たる関心事は、憲法、安全保障である。

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