『教育激変』教育議論は愉しい。教育論議は大風呂敷になる

2019年07月13日 06:00

教育議論は愉しい

教育議論は愉しい。なにを言っても、その発言が検証されないからです。

本書でも、センター試験や大学教育についてエリート臭香ばしく語られています。日本の教育問題は、「エリート教育問題」と言っても過言ではありません。

けれども、国民総エリート化を目指そうとしているように見えるのは私だけでしょうか。

日本企業のビジネスモデルの利益の源泉は「差別」です。

元請企業が下請け企業を「いかに叩くか」で利益率が決まってきます。というよりも、これで利益が出てしまっているので、国際競争とか生産性とかなんてどうでもよい問題だったと言えます。

しかも、その「差別」は学校卒業時の採用状況で一生続くもと言えます。そこに教育が関与する余地はどれだけあるのでしょうか。

きれいごとを言ったもの勝ち

だから、いちばん「きれいなこと」を言った人が勝ちます。じっさいの教区現場は、消化不良を起こしています。

この何十年の教育論争は、ひとことで言えば、「ゆとりか詰め込みか」でした。いまだに、です。だから、東大偏差値エリートの没落が語られる一方で、%がわからない大学生が語られます。

ゆとり派は、たんに授業内容の削減ではなく、知識偏重ではなく、アクティブ・ラーニングとかディスカッションや探究的な学習をやろうということで、児童生徒中心の授業のことです。

詰め込みは、いくらなんでも、学習内容を削減しすぎなんじゃないか、もうちょっと知識を大切にしようということです。

つまり、全体を10として、ゆとりと詰め込みの比率を、6:4にするか4:6にするかというていどの話なのですが、じっさいの現場におろす段となると「どっちも大切だ。10:10でやれ」となり、ゆとりも詰め込みも1とか2しかできないという事態になっているわけです。

で、教育はだれでも一家言あるので、教育の提言は百花繚乱です。それに、なにを言っても、その発言が検証されることはないでしょう。いまだにゆとり教育の総括もされていませんし。

教育はエリートのもの

いきおいこの手の議論は、アクティブ・ラーニング臭=エリート臭がどうしてもしてきます。だって、真ん中あたりから下(の大多数)の人を語っても楽しくないから。センター試験の改編も、全員を創造的エリートにという、日本の社会構造的には無理な課題に立ち向かうことになってしまっているわけです。

ちなみに、この手の議論は、なんでもかんでも大学に行って考える力をつけることになっていますが、大企業に入るとか研究者になるとかじゃなければ、借金をしてまで大学に行く価値があるととうてい思えないのです。けれども、そういった現実的な価値観を提示する教育所なんかはあまりお目にかかったことがありません。

日本のビジネスモデルの王道の限界と非情

たとえば、コンビニの店員さん。あれだけ複雑なオペレーションや極度の感情労働を強いられているのに、時給は900円とか1000円。それと比べて大企業総合職や公務員は5倍とか6倍の給与をもらっていますが、そんなに能力差はあるのでしょうか。これが海外の気の利かない店員さんならもう少し正当化できるかもしれません。けれども、日本における教育的能力差を考えると、とても正当化できないような「差別」に思えます。

少なくとも、ロウアー・レベルの教育は極限までがんばりきってのびきっていて、もはやのびしろはないのではないでしょうか。

教育に夢を乗せてしまうのは仕方がないのですが、なんでもかんでも教育問題になってしまい、それに自縄自縛になっているというのが、現代社会の病理と言ってもいいだと思います。

中沢 良平

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