独占禁止法と入札談合:「競争の体裁」は不幸を生む

前回の論考は談合罪に関するものだったが、今回は独占禁止法を取り上げる。1941年の刑法改正で創設された談合罪に対し、独占禁止法は戦後の1947年の制定である。高校の日本史教科書にも載っているように、独占禁止法はGHQの経済民主化政策の一環として導入されたもので、財閥解体などとセットで語られてきた。

独占禁止法はその名の通り市場における企業の独占化を問題視するものであるが、よく知られる違反はカルテルや入札談合といった、業者間でなされる競争をしないことの合意である。競争制限の合意は独占と同じような弊害を市場に生み出す。それも単なる独占であればそれ自体競争の結果(効率性の反映)である可能性もあるが、業者間の合意にはそれがない。

それを禁止するのが「不当な取引制限」規制である。独占禁止法3条は「事業者は、私的独占又は不当な取引制限をしてはならない。」と定め、その定義規定である2条6項は以下の通り定める。

この法律において「不当な取引制限」とは、事業者が、契約、協定その他何らの名義をもつてするかを問わず、他の事業者と共同して対価を決定し、維持し、若しくは引き上げ、又は数量、技術、製品、設備若しくは取引の相手方を制限する等相互にその事業活動を拘束し、又は遂行することにより、公共の利益に反して、一定の取引分野における競争を実質的に制限することをいう。

この規定の射程に入札談合が含まれることは容易に理解できよう。母法である米国反トラスト法も同様の取り扱いをしているので、日本の独占禁止法が入札談合をその射程とすることは当然視された。これにより入札談合に対する法的規律は刑法の談合罪と独占禁止法の「二重規制」の形をとることになった。

ではどうやって両者は棲み分けているのか。上記の条文から分かる通り、独占禁止法には「一定の取引分野」という要件がある。この「分野」という言葉から、独占禁止法は単発の入札における談合は射程としないものだと理解され(もちろんそうでないとも理解できる)、単発の談合は談合罪、連続する(複数の)それについては独占禁止法というだいたいの実務が定着している。談合罪には対象となる入札の回数の制限をかける文言はないので、論理上、複数回の談合に対し談合罪の適用が妨げられるものでは決してない。

複数回にわたる受注調整を扱う独占禁止法では事業者に対する行政処分が中心であり刑事制裁は例外的な扱いであることから、談合罪との不均衡の問題は無視できない。法人処罰の有無等、両者を単純に比較することもできない。(敗戦を挟んだ)「接木的」な立法の整理が戦後三四半世紀経ってもできていないのが現状である。

独占禁止法においては、違反事実は「基本合意」と「個別調整」とに分けて認定されることが多い(一緒にまとめてなされることもある)。複数回にわたる受注調整の場合、各々が独立して(相互に切り離されて)なされることは珍しく、大抵の場合、事前に全体に係る基本的な合意がなされて、その後にその基本的な合意に従って、個別案件において受注の調整がなされる。

例えば、公共工事であれば、現場に近い業者が落札するとか、工事の規模に応じて応札する業者を分けるとか、落札の順番を決めるとか、そういった取り決めを事前にしておくことが多い(曖昧な形での合意も少なくない)。

戦後の経済民主化政策の目玉として華々しくデビューした独占禁止法ではあるが、制定後数年経ったあたりからその存在感が薄れ、1960年前後にはほとんど適用されない年もあった。それは朝鮮戦争あたりから経済復興を競争ではなく国家主導の計画あるいは業者間の協調によって実現しようという考え方が支配的になったからである。

カルテルを合法化する立法が相次ぎ、あるいは行政指導によって業者間の競争は骨抜きにされ、独占禁止法のプレゼンスは著しく低下した。独占禁止法は戦後復興と高度成長時代の主役ではなかった。いまでも独占禁止法にアレルギーを持つ人々の思想は、こうした昭和の記憶に支えられている。

入札談合も同様である。日本は「談合天国」などと揶揄されるが、昭和の中頃、談合は「必要悪」などといわれ、世の中をうまくやりくりするための「大人の知恵」と考えられた。調達対象の内容とは無関係に、例外なく価格だけで競争させる入札を実施し続けた。

その一方、法令上の原則である一般競争入札ではなく、例外的な指名競争入札を多用し、談合の常態化を招いた。それでも確実な調達が可能になるという前提で、この状況を受け入れ続けてきた。業者側には不透明な金銭のプールが生まれ、これがトラブル解決の潤滑油にもなったが、政治家が巣食う利権にもなった。

「天の声」が政治家やその秘書筋から発せられてきたのは、競争的な仕組みの体裁を繕いつつ、その実、非競争的な実態を見直さず、指名に係る発注者の裁量を多く残したからである。旧来的な政官財の相互利用の構造を支えてきたのが、公共調達の分野であった。公共工事はその象徴的な例である。

時代は変わった。1990年代のゼネコン汚職事件はその大きな転換点だった。その前の日米構造協議を受けた独占禁止法の強化とゼネコン汚職事件後急速に進む入札改革は、談合的な業界構造の変化を迫った。2005年の大手ゼネコンによる「談合決別宣言」は、それまでに定着してきた談合を含む「旧来のしきたり」の存在を認め、それからの脱却を誓うものだった。

その後も、談合事件が生じる度に「旧態依然とした」と批判され続けて今に至る。独占禁止法も数次にわたり改正され、その強化が図られてきた。指名競争入札や随意契約は法令の規定通りに例外的なものとなり、一般競争入札が当たり前になった。一方で、2005年の公共工事品質確保法の影響で公共工事については総合評価方式が原則的な方式と位置付けられることで、発注者にとって現実的な対応が可能となった。

これまで独占禁止法は「適用しない」ことで、上記の「大人の事情」に対応してきた。しかし、平成に入った頃から公正取引委員会は容赦無く入札談合にメスを入れてきたし、今後もそうするだろう。独占禁止法には「公共の利益」というエクスキューズが用意されているが、独占禁止法の適用に当たっては実際上、通用しない。それは何故か。

それは発注者が競争入札を採用している以上、その競争の手続きに反する行為は発注者の利益に反するものだという理解があるからだ。そもそも発注者自身、自ら採用した競争入札の効用を否定する訳がなく、入札談合がなされたならばほぼ確実に、徹底して「被害者」として振る舞うであろう。非を認めれば責任が自分にくるからだ(もちろんそうでないレアなケースの存在は否定しない)。

「競争の体裁」がある以上、競争しない業者は疑われる。そうであれば公正取引委員会も裁判所もそのような前提で考えるだろう。発注者が競争の体裁を作った以上、その体裁に反する行為は独占禁止法の網にかかる。かつてのように独占禁止法が「大人の事情」を考慮することは期待できない。

談合が問題になったリニア中央新幹線(Wikipedia:編集部)

考えるための格好の素材が、リニア談合事件である。一年に一件あるかないかの独占禁止法の刑事事件だ。リニア工事は民間工事であるが官公需の性格を持ち合わせてもおり、公共発注に通じるものがある。事件の真相は裁判の過程で明らかになるだろうが、その断片はすでに雑誌等で報じられている。例えば『東洋経済』の記事、「混迷「リニア談合」、JR東海に責任はないのか:ゼネコン4社が起訴されたが、どこかちぐはぐ」では次のように述べられている(「同社」とはJR東海を指す)。

都心の大深部や南アルプスを掘削するリニアは難工事とされ、同社もそれを察してか、事前に地質調査やトンネル掘削の研究開発をゼネコンに依頼していた。

難工事の連続、かつ時間的制約が厳しいというのであれば、競争よりも計画あるいは協調の方がうまく行くかもしれない。協調的関係がなかったとしても業者側にとって得意分野を選択し、そこに資源を集中させる方が効率的であり、そのような棲み分けが競争制限の基本合意なしに形成されることも十分あり得る。そのような事情があり、それを発注者が理解しているのであれば、公共調達でいう特命随意契約を各社と結べば足りるものだったのではないか、という疑問が残る。

少しでも安くしたいというプレッシャーがJR東海側に強くかかったのか。あるいはWTO政府調達協定の対象であった時代の感覚がどこかにあったのか。財務部門と技術部門の連携は十分に図られていたか。もし非競争的な状況のきっかけを作ったのが発注者であるJR東海だというならば、この事件は果たして刑事事件になるようなものだったのか。

公正取引委員会委員長の発言が上記『東洋経済』誌で紹介されている。

 (各社の技術力や手繰りなど)事前に工事を割り振らざるを得ない事情があったとしても、価格競争をルールに設けた以上、受注者同士で価格を話し合うのは独禁法違反だ。初めから(特定のゼネコンと直接契約を結ぶ)随意契約なら問題はなかった。

随意契約だったらよかった。公正取引委員会の本音が垣間見られる。何故、大成と鹿島は否認しているのか。事件の本質はその理由が何なのかに見出されよう。独占禁止法が今、試されている。

一連の競争入札改革は一般競争入札の徹底を発注者に求め、発注者は競争という体裁を繕うことに躍起になった。競争を信頼していない発注者が競争の体裁を繕うだけで、旧来的なやり方での業者側の柔軟な対応を期待するのであれば、業者側は独占禁止法違反という大きなリスクを負うことになってしまう。市場原理に基づく自然な棲み分けであっても、独占禁止法はあれこれ理由を探して牙をむくかもしれない。

一方、業者側がコンプライアンスに拘れば(それは過剰反応の場合もある)、リスクは発注者側に移ることになる。「談合決別宣言」の少し後に、建設業界のトップに宣言後の公共工事の展望について話を聞いたことがある。「これからは困るのは私たちではなく発注者だよ」と答えてくれたことを今でも鮮明に覚えている。

楠 茂樹 上智大学法学部国際関係法学科教授
慶應義塾大学商学部卒業。京都大学博士(法学)。京都大学法学部助手、京都産業大学法学部専任講師等を経て、現在、上智大学法学部教授。独占禁止法の措置体系、政府調達制度、経済法の哲学的基礎などを研究。国土交通大学校講師、東京都入札監視委員会委員長、総務省参与、京都府参与、総務省行政事業レビュー外部有識者なども歴任。主著に『公共調達と競争政策の法的構造』(上智大学出版、2017年)、『昭和思想史としての小泉信三』(ミネルヴァ書房、2017年)がある。