敬の一念を持つ

明治・大正・昭和と生き抜いた知の巨人である森信三先生は、『修身教授録』の中で次のように言われています--師説を吸収せんとせば、すべからくまず自らを空しうするを要す。これ即ち敬なり。故に敬はまた力なり。真の自己否定は、所謂お人好しの輩と相去ることまさに千万里ならむ。

ここで先生が言わんとしているのは、誰かに非常に傾倒しその人から長所を出来るだけ取り入れようとする、言ってみれば、その人に感じる「敬」の気持ちに対しその対極にある「恥」の気持ちを抱く中で自分をある意味否定して行く、ということではないかと私は思います。

但し、それは全部の自己否定ではなくて、自分が敬と感ずる他者の点を同時に恥と思い、他者の優れた点を徹底的に真似して自分の悪い所を排除しよう、といった感覚を「真の自己否定」と森先生は言われているのではないでしょうか。

私が私淑するもう一人の明治の知の巨人・安岡正篤先生は、「人の人たるゆえん」として此の敬と恥という言葉を挙げておられます。先生は之に関し、『照心講座』の中で次の通り述べておられます--敬という心は、言い換えれば少しでも高く尊い境地に進もう、偉大なるものに近づこうという心であります。したがってそれは同時に自ら反省し、自らの至らざる点を恥づる心になる。省みて自ら懼(おそ)れ、自ら慎み、自ら戒めてゆく。偉大なるもの、尊きもの、高きものを仰ぎ、これに感じ、憧憬(あこが)れ、それらに近づこうとすると同時に、自ら省みて恥づる、これが敬の心であります。

人間というのは本質的に、敬と恥の関係を常に有しているものです。此の敬と恥が相俟って醸成されてくる「憤」の気持ちが、大きくは万物の霊長としての人類の進歩を促し、また個人については、自身を段々と変え成長させて行く原動力にもなります。

それがため敬を知り恥を知らねばならず、之は人間誰しもが持っている気持ちです。そんな敬と恥を自らの内に覚醒させるべく、出来るだけ若いうちに心より師事するに足る人物を見つけ出し、その全人格を知ろうと大いに努めれば、そこに自分が良き方向に変わり得る可能性が生まれてくるのだと思います。

安岡先生は之に関し、『運命を開く』の中で次のように言われています――人間はできるだけ早いうちに、できるだけ若い間に、自分の心に理想の情熱を喚起するような人物を持たない、理想像を持たない、私淑する人物を持たないのと、持つのとでは、大きな違いです。なるべく若い時期に、この理想精神の洗礼を受け、心の情熱を燃やしたことは、たとえ途中いかなる悲運に際会しても、いかなる困難に出会っても、必ず偉大な救いの力となる。若い時にそういう経験を持たなかった者は、いつまでたっても日蔭の草のようなもので、本当の意味において自己を伸ばすということができない。ことに不遇のときに、失意のときに、失敗のときに、この功徳が大きいものです。

あるいは、森先生は冒頭挙げた『修身教授録』の中で次の通り述べておられます--真に自分を鍛えるのは、単に理論をふり回しているのではなくて、すべての理論を人格的に統一しているような、一人の優れた人格を尊敬するに至って、初めて現実の力を持ち始めるのです。同時にこのように一人の生きた人格を尊敬して、自己を磨いていこうとし始めた時、その態度を「敬」と言うのです。それ故敬とか尊敬とかいうのは、優れた人格を対象として、その人に自分の一切をささげる所に、おのずから湧いてくる感情です。

私の場合、『論語』を中心とする中国古典あるいは上記した明治時代の二大巨人、森信三・安岡正篤といった方々が私の師ではないかと考えています。自分の範とすべきものがあり、その人物は如何にしてそうなり得たか等々と学ぶことで初めて、自分もその人物に近付こうという思いに駆られることになってきたわけです。

目の前で師と触れ合い師の呼吸を感ずるような状況、すなわち師と仰ぐ人の謦咳に接することが一番望ましいのは言うまでもありません。しかし小生のように残念ながらそれが叶わぬ場合は、師と定めた偉人の書を読み込み、その様々な教えを通じて学び、それを血肉化して行くことが非常に大事だと思います。そしてまた、の対象が歳と共に変化して行くようでないと、人間としての進歩はないと私は考えています。

最後に本ブログの締めとして、森先生の次の言葉を紹介しておきます――自分の貧寒なことに気付かないで、自己より優れたものに対しても、相手の持っているすべてを受け入れて、自分の内容を豊富にしようとしないのは、その人の生命が強いからではなくて、逆にその生命が、すでに動脈硬化症に陥って、その弾力性と飛躍性とを失っている何よりの証拠です。(中略)尊敬の念を持たないという人は、小さな貧弱な自分を、現状のままに化石化する人間です。したがってわれわれ人間も敬の一念を起こすに至って、初てその生命は進展の一歩を踏み出すと言ってよいでしょう。

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