銀行の権益の危機。給与口座振込が資金移動業者にとって代わられる?

2019年07月29日 06:00

労働基準法は労働者保護の見地から、賃金は必ず通貨(現金)で払うことを雇用主に義務付けている。しかし、これには大きな例外があり、いまではそれが当たり前となっているのが、給与の口座振込だ。

写真AC:編集部

私は、国家公務員の給与口座振込が始まった翌年の1975年に役所に入った。その頃はATM(当時は預金の引き出し機能だけでCDと呼ばれた)は、まだ現在ほど多く設置されておらず、給与の一部は現金で渡されて残りが口座に振り込まれた。それがやがて全額口座振込になった。

給与の現金支給は、経理担当者にとっては大変な負担で、給料日ごとに銀行に行って必要な券種の紙幣や硬貨を受け取り、それを持ち帰った後は各人の給料袋に1万円札のほかに1000円札を適度にまぜて1円の単位まで間違わないように袋詰めする作業に追われたものだ。

銀行の方も、給料日には役所の要望に応じて1万円札、1000円札のほか様々な硬貨をそれぞれ必要枚数用意して、役所の経理担当者に手渡す手間が大変だった。これは役所だけでなく企業においても同じく大変な作業だったと思う。

この手間とコストが減ったことは、経済的に大変有意義なことだった。2003年には全銀協が、国家公務員の給与の全額振込化を推進するように政府に要望書を提出し、政府でも各省庁の尻たたきをして現在では100%近くが口座振込となっている。完全に100%にならないのは、法律上給与の口座振込は本人の同意なしではできないからだ。

しかし、銀行にとって給与口座振込のメリットはそれだけでなく、預貸の利ザヤが大きかった時代は、利益の源泉である預金を効率よく集める手段だったし、今でも毎月必ず給料が振り込まれるサラリーマンは、住宅ローンや教育ローンの返済が確実に期待できる優良な借り手であり、さらに電気代やガス代などの公共料金を口座自動引き落としにしてもらえば、電力会社、ガス会社などから手数料も入ってくるお得意さんだ。また、それだけではなく、預金者に保険金や親の遺産などが入ると、そのことはすぐに口座残高に反映されるから、資産運用の勧誘を行う際の貴重な情報源となっている。

今、この銀行の大きな権益が資金移動業者の出現によって蝕まれようとしている。

LINE Payは7月22日から「LINE Payかんたん送金サービス」を開始した。これによって給与以外の臨時の報酬の支払い、経費・交通費の精算、ネット通販での返品に伴う返金などをLINE Pay経由で企業から個人へ直接行うことが可能となった。同様の企業と個人間の送金サービスは既にpringも提供しているが、LINE Payの登録者数が3000万人を下らないことを考えると今回のインパクトは大きい。

また7月25日には日本郵船が、船上での船員への各種手当の支給や船員による生活用品の購入などを、マルコペイ(MarCoPay)という電子通貨プラットフォームを経由してできるようにするサービスを来年1月から開始すると発表した。

これらのサービスは、現状では上述のとおり、労働基準法(船員は船員法)が給与の現金支給を義務付けているため、企業がこれらのサービスを使って銀行口座を経由せずに社員(船員)に給与を支払うことはできないが、LINE Payなどが今後の法改正を視野に入れて、給与の取扱いもすることを目指しているのは間違いなかろう。

今年6月21日に閣議決定された政府の「成長戦略フォローアップ」では、LINE Payのような資金移動業者が破綻した場合に労働者が守られるよう、保険などの制度設計が具体化されることを前提として、2019年度、できるだけ早期に資金移動業者の口座に賃金を支払えるような制度をつくることとしている。

こうした動きに対して、顧客の銀行離れを懸念する全銀協は7月18日の会長記者会見で、労働者の生活の糧である賃金の受け皿に資金移動業者がなることについて「安心・安全の面で万全を期すことが重要」といって新たな措置の性急な導入をけん制している。

たしかに、アメリカのように約4分の1の家計が銀行に口座を持たないか持っていても給料の受取りには小切手換金業者などを使う国と違って(2017年の連邦預金保険公社調査による)、成人のほぼ全員が銀行口座を持つ日本では、給与の口座振込は便利で信頼のおける制度として定着していることは否定できない。

しかし、企業にとってみれば資金移動業者経由で給与を支払った方が、銀行の総合振込手数料よりコストが安くなる可能性があり、サラリーマンにとっても自分のスマホのLINE Payなどに会社が給料をチャージし、それを買い物や送金に使うことができれば、銀行口座を使ったときのように送金の際の振込手数料や現金を入手する際のATM手数料を払わずにすむ。

特にまだ給与水準が高くない若い世代の人達にとって、銀行の各種手数料は収入に比較して結構大きな出費なので、資金移動業者経由の給与支払いは歓迎されるだろう。

労働基準法を所管する厚生労働省での議論はなかなか進んでおらず、この制度の導入は予定より遅れる可能性が強いものの、銀行は現在の権益を守ることに汲々とするのではなく、むしろJ-Coin Payやこの秋に開始すると言われているBank Payなどを早く普及させて、LINE Payなどに負けないように前向きの努力をした方がよいのではないだろうか。

有地 浩(ありち ひろし)株式会社日本決済情報センター顧問、人間経済科学研究所 代表パートナー(財務省OB)
岡山県倉敷市出身。東京大学法学部を経て1975年大蔵省(現、財務省)入省。その後、官費留学生としてフランス国立行政学院(ENA)留学。財務省大臣官房審議官、世界銀行グループの国際金融公社東京駐在特別代表などを歴任し、2008年退官。 輸出入・港湾関連情報処理センター株式会社専務取締役、株式会社日本決済情報センター代表取締役社長を経て、2018年6月より同社顧問。著書に「フランス人の流儀」(大修館)(共著)。人間経済科学研究所サイト

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