フロイト没後80年と「ノーベル賞」

長谷川 良

ジークムント・フロイト(1856~1939年)が亡くなって今月23日で80年目を迎えることもあって、フロイトに関する話を聞く機会が増えた。フロイトは「ウィーンは心理学のエルサレム」と呼んでいた。彼は生前、ノーベル医学賞ばかりか、ノーベル文学賞候補にも推薦されていたという事実を聞いて驚いた。精神分析分野で“無意識の世界”にまで踏み込み、その後の心理学、精神分析学に大きな影響を与えたこともあって、フロイトがノーベル医学賞候補に推薦されたことがあった、というのは頷ける。

精神分析学創設者ジークムント・フロイト(ウィキぺディアから)

そのフロイトが文学賞候補としても挙げられていたことは意外だったが、同時に納得できた。彼は言葉の重要性を常に強調してきた。精神病の患者の外観、行動を見て分析するだけではなく、その患者が発する言葉の意味、背景、歴史を重視して、患者の心の世界に踏み込んでいった。その際、言葉は最大の武器だ。

彼の多くの著書は単なる精神分析の専門書というより、文学書を読むような心の感動を受けるのも、フロイトが言葉を重視していたからだろう。その意味でフロイトがノーベル文学賞候補に挙げられたのは理解できる。いずれにしても、フロイトは1912年から20年の間、何度もノーベル医学賞の候補に推薦されているが、最後まで獲得できなかった。

例えば、1921年にノーベル物理学を受賞した同じユダヤ人のアルベルト・アインシュタイン(1879~1955年)はフロイトの医学賞候補には異議を申し立てていた。曰く、「心理学は科学ではない」という理由だ。しかし、アインシュタインは後日(1939年)、フロイト宛の書簡の中で、「あなたの著書を読む度にその文学的表現に感動を覚えます」と述べ、フロイトの著書の文学的価値を認めている。フロイトは「患者の話を物語のように綴る才能を有していた」といわれている。

フロイトは精神分析でも視覚的な現象からだけでなく、患者が語る言葉の意味、その背景を重視して精神病患者を治療している。先ず、思考が“霧と靄に包まれて”浮かび上がる。それを言葉を通じて形態を付与する。フロイトは,「言葉は本来、人間を治癒する魔法」と信じていたが、「言葉がその魔法を次第に失ってきた」と懸念を表している。新約聖書ヨハネによる福音書第1章の有名な聖句、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」を想起させる発言だ。

フロイトは1917年、人間に屈辱を与えた3つの出来事を挙げている。①コペルニクスの地動説、②ダーウィンの進化論、そして③フロイトが提示した無意識の世界だ。この3件の出来事を通じて、人類が自身の運命の主人ではないことが明らかになり、人類は威信を失ったというわけだ。③の場合、無意識が人間の言動を操っているというのだ。

ウィーンにあるフロイト博物館内のフロイト像(フロイト博物館のHPから)

フロイトは小物、骨董品などを集めていた。彼のデスクには中国の昔の小さな像が置いてあった。彼は毎朝、事務所に入るとその置物に「おはよう」と声をかけてから仕事を始めたという。このエピソードは家事手伝いの女性の証言だ。

フロイトは特別、宗教的ということはなかった。しかし、ユダヤ民族をエジプトの苦役から解放し、出エジプトを主導したイスラエルの指導者モーセには強い関心を持っていた。そして「なぜユダヤ民族は迫害されるか」、「どうして唯一神教が生まれてきたか」を常に考えていたという。

ナチス・ドイツ軍が1938年3月、オーストリアに侵攻すると、ユダヤ人への迫害が一層強まっていった。フロイトは同年6月、フランスのナポレオンの親族関係者らの支援を受けてパリ経由でロンドンに亡命したが、1年もしないうちに、第2次世界大戦を体験することなく、39年9月23日、83歳で亡くなった。

蛇足だが、精神分析学の創設者フロイトはノーベル医学賞を受賞できずに亡くなったが、あのアドルフ・ヒトラーは1度ノーベル賞候補に推薦されたことがあった。もちろん、ノーベル医学賞、文学賞ではなく、ノーベル平和賞だ。ユダヤ人を大虐殺した指導者ヒトラーが実際ノーベル平和賞を受賞していたならば、大変だった。幸い、ヒトラーの平和賞推薦は、ナチス・ドイツ軍のポーランド侵攻前に撤回されたという。

ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年9月7日の記事に一部加筆。