監視されない社会

2019年09月18日 14:00

ジョージ・オーウェル氏が1949年に発刊した「1984」は現代の監視社会を予言していたともされます。我々はもはや、監視カメラから逃れることはできず、行動は原則把握されているとしてもよいでしょう。それを当たり前の社会とするのか、監視されない社会に逃避できるのか、一考を投じてみたいと思います。

(写真AC:編集部)

(写真AC:編集部)

私が不動産開発デベロッパーとして次にもしも何かやるなら無人島を購入して、そこに監視カメラのないリゾート施設を作ってみたら面白いと思うのです。かつて、人は監視されることはほとんどありませんでした。好き勝手な行動ができたことが様々な人生のドラマに繋がったり社会の功罪となったことも事実です。

リゾートというのは非日常の世界に自分を置きながら全てから解放され、つかの間の「自分らしさ」を取り戻すところであります。(日本でよくディズニーランドなどをリゾートと勘違いする向きがありますが、それは全く異なるものです。)全てからの解放となれば自分の行動が見られているのはその趣旨に反します。

例えば最近、若いボーター(クルーザーやボートに乗る人)が増えてきて私のマリーナの顧客も世代交代が進んでいます。なぜ、今、ボートなのか、といえば大海原で監視されない自由を楽しみたいと思う人が案外増えてきているからかもしれません。

私はこの数年、ハイキングとか山登りに時々出かけます。山の頂上からの眺めも素晴らしいのですが、誰にも監視されていない中で自然と共生している感じがとても好きなのです。

今日、「人も歩けばカメラに当たる」という新しいことわざができるほど監視された社会を当たり前のように受け入れつつあります。無人化したコンビニ、例えばアマゾンGOなどでは無数のカメラが店内にいる顧客の一挙手一投足を監視します。もちろん、人が直接的にそれを監視しているわけではないのですが、微妙な緊張感を感じる人もいるのではないでしょうか?

私は時々、車でカナダとアメリカの国境を行き来します。国境には様々な監視カメラがあちらこちらに配備され、国境警備員から冷たい視線を浴びながら質問を受けます。連中は不愛想だと思うのですが、向こうは同じ質問を一日何百回とやっているわけで愛想よく笑うわけがありません。そんな相手ですから悪いことをしていなくても自然と体が硬くなるのは連中の応対と同時に監視されているという環境にあるからなのでしょう。

我々は二律背反することを考えます。便利を求める一方、それに伴う代償として監視されることを許容しています。ならば多少不便でも監視されない生活もアリでしょう。昔、スーパーマーケットでぶどうを買う時は一つつまんで甘さをチェックすることもしばしばありました。最近はさすがにできませんがそんなおおらかな世界は人間チックで楽しかったと記憶しています。

中国には無数のカメラが設置され、常に監視下に置かれています。それに対して中国人は「それが当たり前だから今更…」というコメントを聞くに及び、慣らされることへの恐怖感を改めて感じました。

我々は人間としての自覚と道徳心を本来持ち合わせているはずなのに監視され、悪い奴が自動的に捕まるような社会になりつつあるとすればそれを「防犯上安全になったのだからいいではないか」とするのか、そんな社会だからそこ、よりストレスフルになり、おかしな運転をする輩や理解不能な行動に走る現代人の原因となったのか、よく考える必要があるのではないでしょうか?

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2019年9月18日の記事より転載させていただきました。

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