アルベールビル五輪で銅:スペインを代表した女性スキー選手の孤独死

2019年10月03日 11:30

女性スキー選手でエリート中のエリート

ブランカ・フェルナンデス・オチョアと言っても日本では馴染みがないであろう。彼女はスペインを代表するスキー選手だった。1992年のフランス・アルベールビルで開催された冬季オリンピックの回転で29歳だった彼女は銅メダルを獲得している。その前のカナダ・カルガリでのオリンピックで大回転では1本目はトップに立ったが、2本目は転倒して途中棄権となった。

亡くなったブランカさん(右)(vidassinlimite.saga/flickr)

彼女の兄が1972年の札幌オリンピックの回転で金メダルを獲得したフランシスコ(愛称パコ)・フェルナンデス・オチョアだ。彼の勝利は予想外で、日本のテレビ局はインタビューにスペイン語の通訳を用意しておらず、イタリア語の通訳を介してインタビューしたという逸話もあった。

余談ながら筆者がスペインに渡ったのはその翌年であった。

あの頃、彼女はまだ11歳だった。その年齢から彼女はスキーに磨きをかける為に寄宿生活を開始したのであった。幼少の頃はスキーは寒く好きではなかったという。1983年と1988年にベストスポーツ選手としてスペイン・ソフィア王妃賞が、そして1994年にもスポーツ功労賞として金メダルが彼女に授与された。スペインの女性スキー選手のエリート中エリートに成長したのである。(参照:elmundo.es

しかし、ブランカはカルガリ・オリンピックで銅メダルを獲得した翌年30歳で現役を退いた。彼女は義兄アドゥリに次のように語ったことがあるそうだ。「アドゥリ、私は競馬の馬のようなものだった。私が勝つことがなくなった途端にグランドに見捨てられた」。

引退後の苦労と山中での遺体発見

さらに、アドゥリは、ブランカが消息を絶ってからセカンドキャリアで苦労していたことを語った。

「ブランカは30歳の手前で引退したスポーツ選手だ。このスポーツはサッカー、テニス、ゴルフのように財産を築くだけ稼げるものではない。金銭面での褒章は受けていなかった。(働いて)稼いでいた給与も1000ユーロ(12万円)以上(2000ユーロに至らない)でしかなかった。だから(スキー選手として)億万長者で引退するようなことはまったくなかった。スペインを代表したことのある選手は(金銭面で)価値ある生活ができるようなプランがあるべきだ」

「そうは言っても、スペインは素晴らしい国だ。我々は感謝している。なぜなら彼女を見つけることにみんなが没頭してくれたからだ」

(参照:larazon.es

そして9月4日、マドリード州セルセディーリャ市を見下ろす山並みの途中海抜1600メートルの地点でブランカは遺体で発見された。

彼女の死に至るまでの経緯はこうだ。

8月23日、ブランカは娘のオリビアに「山道を4日程歩いて来る」と言ったそうだ。一方、姉のロラには「調子が良くない。ひとりになりたい。考えたい。また電話するから」と語ったという。他人には北の方、アストリア地方か、サンティアゴ巡礼の道とかに行って来ると言っていたそうだ。数日間ブランカが家を留守にするということはこれまでもあったことから家族は当初不審を感じなかったという。

翌日、24日にはポスエロ市のスーパーでチーズを買っていたのが確認されていた。その後4日間の沈黙が続いたのである。ブランカは4日程留守にしたいということだったので、彼女の家族はその期間は尊重していた。ところが、4日が経過した後も連絡がないので8月29日、家族は警察に捜索願いを出したのである。

その時点からメディアでも彼女が消息を絶っていることが報道されるようになった。警察から400人の捜査員が派遣され、捜査犬、ヘリコプター2機、ドローン7機、更にナバセラダの貯水池の捜査に水上艇も配備された。それに加えて一般市民からボランティアが150人集まった。(参照:elmundo.es

ブランカは2度の離婚から訴訟費用がかさんで家は売却。貯金も僅かという境遇であったことから姉ロラの家に同居していた。そして、姉に「ひとりになって色々と考えごとをしたい」と言って家を出てから11日目、捜査犬が彼女の遺体を見つけたのだった。

失意続きだった引退後

遺体は腐敗していたが損傷はなく自然体のまま横たわっていたという。彼女が背負っていたリュックサックには躁鬱を繰り返す双極性障害薬として抗うつ薬、リチウム剤などが見つかっている。彼女は子供の時から双極性障害を患っていた。彼女が亡くなった年齢56歳は偶然の一致なのか、彼女が尊敬していた兄のパコも56歳で病死している。

(現地メディアの訃報記事ツイッターより。写真はセルセディーリャ市にあるパコの銅像とブランカ)

ブランカが兄のパコを大変尊敬していたのは彼女が銅メダルを獲得した時の背番号14番のシャツをパコにプレゼントした時に窺える。彼女は「運命は私を中途に留めさせたかったようだ(金メダルではなく銅メダル獲得という)。でも、オリンピック・チャンピオンのパコの妹であるという誇りは誰も私から取り去ることはできない」と一筆パコに認めたのであった。(参照:elmundo.es

ブランカは家族が経営するスポーツ品店に勤務していたが、経済危機で店は8-9年前に閉めた。その後、彼女はコーチングの仕事や講演をしていた。講演ではエリート選手だった頃の経験談を語っていた。企業役員らへのアドバイスを専門にしたコンサルタント会社スター・ドゥリームズにも籍を置いていた時もあった。テレビでチャレンジする番組などにも出演した時もあった。

その後、姉ロラの会社で意欲を生み出すためのテクニックを教える指導もしていた。しかし、30歳手前で引退して20数年が経過していたが栄光を浴びていたスキーから彼女の脳裏は離れることができなかたのである。しかも、引退してからスキーとは縁のない仕事に就いていただけに内心不満が鬱積していたようである。経済的にも楽をする機会には恵まれなかった。そして、ロラの家に同居して9カ月が経過していた。ついに、8月23日、帰らぬ旅に出たのであった。

自分と子供と家族のための闘いの日々に終止符

ブランカの遺体が発見された後、パコの娘パウラは叔母ブランカに次ぎのような言葉を捧げたのである。それはブランカが銅メダルを獲得した時に彼女の父親パコに捧げたことばへの返礼のようなもので「数年前に(叔母は)中途で終わった運命に触れた。今日はその別の意味で非常に痛みを感じている。ブランカがいなくなって我々は寂しく感じている」と哀悼の意を捧げたのである。

ブランカは兄のパコが亡くなったことから精神的に立ち直ることは出来なかったと言われていた。パコは精神の強い持ち主で、フェルナンデス・オチョア一家は彼をリーダーにして団結していたという。パコはブランカの精神的な脆さを知っていて、彼が亡くなる前に「ブランカ、闘うのだ。君の為、君の二人の子供の為、家族の為にだ。そして一日に一度は微笑むことだ」と死に至る床でブランカにそれを実行することを誓わせたのであった。(参照:elmundo.es

ブランカの娘のオリビアは、7人制ラグビーのスペイン代表選手で、アドゥリに「唯一、知りたいのは私の母が苦しむことなく亡くなったかどうかということだ」と尋ねたそうだ。

ロラの家を出た時には引き出しに用意してあった大半の精神安定剤を持ち出していたこともあとから判明した。また、珍しく携帯電話を家に置いて出ていった。リチウム剤の服用過多は死をもたらす。遺体を解剖した胃袋には抗うつ剤の存在が確認されている。(参照:lavozdegalicia.es

世界のトップレベルのスキー選手として活躍し、メディアも盛んに彼女のことを取り上げていたが、引退した後、彼女のことを再び大々的に取り上げたニュースは皮肉にも今回の死亡した出来事であった。

白石 和幸
貿易コンサルタント、国際政治外交研究家

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