「老人」は如何に社会の希望となるか

南米出身のローマ法王フランシスコは法王就任後、毎朝、サンタ・マルタで朝のミサを開いている。ミサの内容はバチカン・ニュースで報じられるので時たま読んでいるが、9月30日の朝拝のテーマには心が魅かれた。「子供たちと老人たちは我々の希望」だ。「子供たちは私たちの希望」というのなら直ぐに「その通りだ」と頷けるが、「老人たちも我々の希望」というのだ。

サンタ・マルタで朝拝するフランシスコ法王(2019年9月30日、バチカン・ニュースのHPから)

フランシスコ法王は何を言いたいのだろうか。当方も次第に老人のカテゴリーに入ろうとしていることもあって、「我々老人も本当に社会の希望だろうか」とひがみ心も手伝って考えざるを得ない。「老害」という表現さえ聞かれる社会に生きている。それが現実社会ではないか。

社会の高齢化は社会学者だけではなく、国家の深刻なテーマだ。国民の3分の1が65歳以上の老人たちに占められれば、その社会の活動は停滞する、ということで、各方面で社会の高齢化対策が話し合われている。

高齢化は社会の少子化と連携する。子供が生まれない一方、高齢者だけが増えてくる。日本の社会は既にそのような社会構造に直面している。子供が少なく、高齢者が増えれば、年金問題から医療問題まで国の大きな財政負担となることは容易に予測できる。だから「子供は希望だが、高齢者は社会の負担ではないか」と、考えざるを得なくなる。しかし、フランシスコ法王は「子供と共に老人も希望だ」というのだ。法王自身も老人だから、自分を鼓舞する一方、同じ老人への社交辞令に過ぎないのではないか。

子供や老人は消費するが、生産しない。生産しない社会層が増えれば、社会にとって負担増以外の何物でもない。フランシスコ法王は、「子供たちや老人たちを守らず、人間の価値をその生産だけで測る社会には神がいない。生産しない子供や老人を守らない社会には神はいない」という。換言すれば、「外で働いて給料を持ってこない人間は価値はなく、どれだけの給料を持ち帰ってくるかで、その人の価値が決まる社会」には神がいないというわけだ。

子供は近い将来、給料を運んでくるだろうから、希望だが、老人はそうはいかない。準備なく死ねば、残された家族は葬儀代すらも困ってしまう。にもかかわらず、フランシスコ法王は「子供と共に老人が社会の希望」だというのだ。

フランシスコ法王は「ゼカリヤ書」(紀元前6世紀後半のユダヤ人の預言者)第8章を引用する。

ゼカリヤは、「神は自分を裏切る人々すら愛している。エルサレムは破壊されたが、神はその破壊されたユダヤ人社会に住んでいる」という。そして「エルサレムの街路には再び老いた男、老いた女が座するようになる。みな年寄の人々で、各々杖を手に持つ。またその町の街路には、男の子、女の子が満ちて、街路に遊び戯れる」と述べ、子供と老人がいる社会にゼカリヤは希望を感じ、エルサレムもそのようになると預言したわけだ。

フランシスコ法王は、「高齢化に悩む国は悲劇だ。路上には子供も乳母車も見られず、妊婦の女性の姿もいない。子供は要らないと人々は考える。年金者の数が就労年齢の人々より多い。そのような“人口学的な冬”の中にある国が多くなってきた。老人を評価しない社会は伝統を失っていく。伝統は博物館ではない。伝統は未来の保証であり、木が成長し果実をもたらす樹液のルーツだ」と強調し、「子供と老人は希望の文化」と述べ、礼拝を終えている。

「青年」の詩で有名な米国の実業家、詩人のサミュエル・ウルマンは、「年を取るだけでは人は老いない。理想を失う時に初めて老いが来る」と語っている。社会が直面している社会の高齢化は少子化と医療技術の向上の物理的な結果ではなく、熱意を投入できる理想や夢を失った結果ではないか。理想や夢が溢れている社会では社会の高齢化は大きな問題とはならないはずだ。同じように、理想と夢が溢れる社会で少子化問題は生じるだろうか。

ゼカリヤが街路で子供たちと老人たちの姿が見られるエルサレムの再現を預言したが、少子化と社会の高齢化は、避けられない未来の運命ではなく、解決可能な問題だ。解決のカギは政治家の政策や掛け声ではなく、失った理想と夢を各自が見出すことから始まるのではないか。

フランシスコ法王の前任者、べネディクト16世は「21世紀には虚無主義が席巻するだろう」と警告を発している。私たちは虚無主義に打ち勝たなければならない。

ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年10月3日の記事に一部加筆。