教育最前線:「みんなの学校」と百ます計算に見た日本の没落

2019年10月05日 06:00

みんなの学校」というドキュメンタリー映画をご存じだろうか。教育関係者や学齢期の児童の保護者の間では話題になった、大坂の大空小学校の取り組みである。ユニバーサルでありインクルーシブである。発達障がい児や知的障がい児、家庭に大きな問題のある子供たちがクラスに受け入れられていく姿は感動的である。先生がたの努力によって。

映画「みんなの学校」公式サイトより

百ます計算を、まだ覚えて入らっしゃる方はいるだろうか。いっとき一世を風靡した学力向上メソッドである。百ますの単純な計算をしていけばいいだけなので、多くの先生が飛びついた。

真逆の取り組みのように思えること二つに共通点がある。

それは「見えない学力」を重視しているという考えだ。

「見えない学力」とはなにか

元をたどれば、教育学者の岸本裕史氏が提唱した概念だが、学力には「見える学力」と「見えない学力」があり、「見えない学力」は「見える学力」をつけるためにも土台であり重要であるという考えだ。

大空小学校の木村泰子校長も、百ます計算の陰山英男先生もこの「見えない学力」を強調している。読者は、木村校長が強調するのはわかる気がするけど、なぜ「詰め込み派」と目された陰山先生がといぶかしむかもしれない。

陰山氏(ツイッターより)

けれども、陰山先生は、「見えない学力」、彼の言葉でいうと「早寝、早起き、朝ごはん」が学力の土台になるとしっかり言っている。わかりやすい。一方、木村校長は「おもいやりや粘り強さ、自制心」といういっとき話題になった「非認知能力」のようなことを言っている。

おふたりとも「見えない学力」にかんして微妙にちがうことを言っているように見えるが、生活習慣や精神的な安定を得てから、学習に取り組むとくことが学力向上の第一歩であると述べている。当たり前のことだけど。土台や基礎がしっかりしなければ、「見える学力」もつかない。

そこからがすこしちがいが出てくるのだが、陰山先生が「見える力」の向上にわかりやすく真正面からぶつかっていったのに対し、木村校長は「見えない学力が身につけば見える学力も自ずとついてくる」というスタンスだ。

教育を究めた先生たちの実践

陰山先生の実績は「ゆとり教育」のアンチテーゼとしてがぜん注目されたわけだが、その取り組みやエピソードは非常にわかりやすい。彼がまだ兵庫県の現場の教員で6年生を担任していたときに、百ます計算をひたすらやったら(もちろん他にもたくさん興味を引く授業をやっている)、6年後に子供たちが関西の旧帝大、国立医学部にこぞって合格したという物語だ。これを日教組の研究大会で「百ます計算を大量にこなしたら学力が向上した」と発表し、センセーションを引き起こした。それからの陰山先生の活躍はみなさんもご存じだと思う。

けれども、残念なことに、この「奇跡」はどこかで再現されたというエピソードは寡聞にして聞かない。

一方、木村校長は、「障害のある子を排除しない教育への道」を求道し、「子供を信じて、ただ寄り添う」「安心して失敗できる環境をつくる」「思い通りにならない子こそが「学びのリーダー」」「大人が「正解」を示さない」「子供が自ら学びたくなる仕掛けを作る」というどちらかといえば、「新学力観」、昔の言葉でいうと「ゆとり」路線である。まだ開校して間もない学校なので、体制が整った後の卒業生の成果はこれからだろう。

この二つの教育思想はまったく正反対ように見えるが、その根底には「見えない学力」がある。

「見えない学力」だけで手いっぱいになってしまった

「見えない学力」というと「見える学力=知識や偏差値」と対をなすような能力に思えるかもしれないが、そうではなく、「見える学力」の土台である。つまらないことだが、それは「生活習慣」とか「社会常識」とかいったものだ。

つまり、「生活習慣」とか「社会常識」とかいったものがなくなってしまったがゆえに、それを強化し、伸ばす試みが、全国の学校のお手本になっている。

残念ながら、日本の学校はまだ「見える学力」まで到達していないのである。離れていってしまったというほうが正確かもしれない。

「見えない学力」が「見える学力」の基礎ならば、「見える学力」は「産業活動」「社会生活」の基礎になる。その上での「人間力」というか「人間性」だろう。

たしかに日本の会社は「人間力」や「人間性」に重きを置きすぎて採用してきた。学生時代、ゼミや研究の内容よりも、「スポーツをやっていたら元気があっていい」といった具合に。ただ、こちらはだいぶ変化が出てきたように見える。

一方学校はどうかいうと、「見えない学力」をつけることに手いっぱいで、大空小学校ではないほとんどすべての学校は、それすらほとんど身につけられずに、子供たちを社会に送り出している。

知識はAIに代替されるから、その地位は下がると学校の教員でも勘違いしている人は多いが、ある程度(ほんとは相当程度)知識を詰め込まなきゃ、AIにできない発想なんぞできないだろう。

学校の「反知性主義」の悲しい末路

このように日本の公教育は「見える学力」は捨ててしまったように見える。というよりも「「見える学力」なんてたんなる偏差値でしょ」と勝手に決めつけて、その教授を放棄してしまったのが、多くの公立学校なのである。

だから子供たちは知識の大きな欠損を抱えたまま、上級学校に進学してしまう。欠損を自覚することによって、劣等感が生まれる。そうなれば、「見えない学力」にも悪影響があるのは火を見るより明らかだ。

実際問題として、多くの学校は「見えない学力」をつけないことには、学校生活の維持も困難になってきてしまっている。つまり学習面より、生活習慣や規律といった福祉の面が大きくクローズアップされてきているのだ。

これから技術の進歩はさらに早まり、ますます「見える学力」が重要になってくる。もちろん、それがあったうえにまた「見えない学力」「人間力」が覆いかぶさり、さらにその上に「見える学力」を蓄積していくような重層的な自己研さんを続けられるようなビジネスパーソンにならないと生き残れないだろう。

意識してバランスを取らないといけない

今までももちろんそういう人物はいたが、優秀な人は確率的に現れるものだ。その確率が上がるように意図的に公教育が仕向けて行かないと、この国の先はあまり明るくない。

少子化や受験の複雑化もあいまって、受験産業にお金がつぎ込める家庭が圧倒的に優位になってしまった。また、AO入試なんてひどいもんだ。教員家庭もお金がある。残念なことに公教育がどうなろうと安全地帯にいられる人たちなのだ。

「見えない学力」だけでがんばっている人の典型は、小泉進次郎環境大臣だろう。自己肯定感や自信は大きいが、自分の話していることの意味がわかっていないようだ。日本のエリート教育は、来るところまで来た感じがする。

また、「見えない学力」は多くの学校で取り違えられて、学校の秩序を乱さない子供を育てることと理解されて、日本社会において、企業に体のいい従順な低賃金労働者を大量に供給するという悲劇が起きてきた。

いずれにせよ、「見えない学力」をつけることと、学校のコミュニティ機能の維持に手いっぱいのうちに、ひとりあたりGDPは韓国に追いつかれようとしているし、数十年スパンでは中国にも肉薄されるかもしれない。

上述のおふたりは、学校教育にほんとうに多大な貢献をしている。けれども、生活態度や集団行動を教えることに特化した福祉化したそれ以外の学校の「反知性主義」「反知識主義」「反学力主義」を払拭しないと、日本は中国のただの衛星国(しかもそこには反日思想がともなう)になってしまうのだろうけど。

中沢 良平

追記:岸本裕史氏の「見える学力、見えない学力」をかなりディフォルメしてしまったので、ご興味のある方はこちらを。

木村先生の近著はこちら

陰山先生の出世作はこちら

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