「過去の累積の体現者」としての天皇

2019年10月31日 06:00

騒いでいるのはリベラルだけ 

今上天皇の「即位礼正殿の儀」が終わり、11月10日には即位に伴う祝賀パレードの開催も予定されており、良くも悪くも天皇への注目が集まっている。

首相官邸YouTubeより

朝日新聞を始めとするリベラルは「即位礼正殿の儀」はもちろん天皇自体に冷笑・否定的である。

この文脈の中でリベラルは「伝統」にも否定的であり「伝統とは創られたものだ」とか「人工的なものだ」といった姿勢を示す。

一方でリベラルが否定する伝統とは事実上、本州・四国・九州の伝統であり、琉球諸島・北海道の伝統は否定することはなくそれどころ積極的に肯定的する。

同じ伝統にもかかわらず評価が異なるのは本州・四国・九州の住人と琉球諸島・北海道の住人の「過去」への評価が異なるからである。

リベラルは本州・四国・九州の住人=加害者、琉球諸島・北海道の住人=被害者といった極めて単純な善悪・白黒思考に基づき伝統を論じている。

管見の限り天皇・皇室の廃絶要求や琉球諸島・北海道がかつて異国だったことに対する拒絶反応も極小派であり、琉球諸島・北海道には既に相当数の者が移住している。

平均的な日本人は本州・四国・九州はもちろん琉球諸島・北海道の伝統に否定的な感情はほとんどないと思われる。

仮に伝統を否定的見るとすればそれは伝統が個人の自由を受忍限度を超えて侵害した場合だろう。逆に言えば個人の自由の脅威にならない伝統など問題はない。しかし問題にして騒いでいるのが日本のリベラルである。

未来とは過去の否定ではなく累積の結果である。

サンサン/写真AC

伝統とは明らかに「過去」という時間を意識させるものである。

だから伝統を否定することは過去を否定することに他ならない。リベラルから言わせると過去を否定することに意義があるのかもしれないが、否定は「断罪」に発展し無用な対立や衝突を生じさせるだけである。対立や衝突の中から利益は生まれない。対立や衝突が終わった後は傷つき消耗している人間がいるだけである。だから過去を否定(断罪)することは最も避けなくてはならない。

大雑把に言えば過去とは未来のための「教科書」である。およそ「学ぶ」とは過去から累積された情報を吸収することである。過去あってこその未来であり、過去と未来は繋がっている。未来とは過去の否定ではなく累積の結果である。この過去と未来の連結関係は強調されて良い

そして伝統という「過去」を評価するにあたって重要なのはこの「累積」という考えである。我々が本当に未来のためにこの社会を発展させたいならば伝統を即座に「復古」「遅れ」と判断するのではなく、なぜその伝統が続いて来たのかという視点を忘れないことである。

天皇が1500年以上存続したのは「偶然」でも「奇跡」でもない。日本史において天皇は「正統性の淵源」だったから存続したのである。国民主権の現在でも日本史を学ぶ限り「正統性の淵源」としての天皇を否定することは出来ない。無理して否定しようとして憲法学者が「8月革命」を強調しても漫画的になり国民主権の権威を低下させるだけだろう。

天皇を否定したいがために「国民主権」の名の下にいい大人が天皇・皇族のプライベートに難癖をつける姿は実にみっともない。陰湿な者に利用される国民主権とはなんなのか。

論を戻すが重要なのは天皇と国民主権を調和的に解釈し現代日本における「正統性の淵源」について整理することである。この作業を「歴史と法の対話」と呼ぶのは少し大げさだろうか。

「過去の累積の体現者」としての天皇

未来とは過去の累積の結果だから、日本という「国家」の未来を語るうえで天皇を避けて通ることは出来ない。天皇ほど「過去の累積」があるものはない。天皇を「過去の累積の体現者」と表現しても決して言い過ぎではあるまい。

そんな天皇を避けて国家を語っても中途半端な国家しか示せないだろう。

この観点から言えば「昭和天皇の戦争責任」や「合理性」を根拠に天皇を否定することはあまりにも単純である。

天皇を肯定的に語ることは極右であることを意味しない。日本の未来のためにも必要なことである。繰り返しになるが未来とは過去の累積の結果である。

天皇に注目が集まっている現在、過去と未来を対立・断絶させない形で日本の歴史と将来について語ってみてはどうだろうか。

高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員

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