道徳化する国語、国語化する道徳

2019年11月19日 06:00

学校で、奇妙な乖離現象が起きている。乖離現象というよりかは、逆転現象といったほうがいいかもしれない。

いまの学校では、国語が道徳になり、道徳が国語になっているのだ。

国語のキモは読解力ではなく道徳力

考えてみてほしい。国語で身につく能力とはなんだろうか。「読解力」「論理的能力」「クリティカルな思考」。

理想はそうだ。

でも、じっさい学校の国語の正解は、「道徳的に正しい読み方をできるようにする」だ。

登場人物の「友情」がバックグラウンドにある読み物で、そこにウィットに富んだ笑い話が展開される。このとき、国語の授業では、後景である「友情」にフォーカスし、友情の大切さを切々と説く感想文が、了とされる。

けれども、なぜその読み物がおもしろいのか理解するのが読解というものだろう。その結果、それがおもしろい、おもしろくないという批評が表れてくる。

けれども、学校国語は、そんなものは捨象してしまって、道徳的な「友情」物語が正解になってしまう。

ここに読解力がはいりこむ余地は、ない。

道徳の国語化がおこった道徳教科化

では道徳はどうか。道徳も、いぜんは国語とそんなに変わるものではなかった。それ以上に、「正解をひとつにしてはいけない」「多様な意見を担保せよ」という職場にただよう圧力によって、なんとも歯切れの悪い話し合いをしていた。

それが、近年の「教科化」によって、事情が変わってきた。

しっかりと「価値」を教えることが前面に出てきたのである。それは「公共心」かもしれないし、「友情」かもしれない。

つまり、「正解」ができた。

このことによって、道徳が劇的に「教えやすく」なったのである。

道徳ノートという、教科書とともに使う書きこみ式のノートがある。これは質問が書いてあり、その答えを子供が書きこむ。友達の意見でよいと思ったことを書きこむ。さいごに今日学んだことを書きこむ。

その時間におうじた「正解」があるので、子供たちが書くことはだいたい同じになる。まさに教材文の「読解」なのだ。

このように「道徳の教科化」によって、学校現場では、国語と道徳の指導内容の逆転現象が起きてしまっている。

現場の先生たちは気にしてないだろうけどね。

中沢 良平
大手元請系企業に勤務後、私立小学校に勤務。公立小学校に転身後、早期退職。年金支給開始まで技術系個人事業主として糊口をしのぐ日々。

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