中村哲医師をイデオロギー論争に利用する愚

篠田 英朗

アフガニスタンで亡くなられた中村哲医師は、あらゆる方面の人々から尊敬されていた偉人と言ってもいい人物だ。政治的立場も超えて尊敬されていたことが中村医師のすごさだ。

中村哲医師(日本記者クラブより編集部引用)

小川和久氏は、テロ特措法をめぐる国会審議の際に、国会で参考人として、中村医師が自分とは反対の立場から意見を述べたとき、「中村さんの穏やかさには感銘を受けた」とSNSで思い出を披露している。これが本当だろう。

私自身、憲法9条の理解は中村医師と違っていると思う。だが、そのことと、中村医師が偉大な人物であったとことには、何も関係がない。

中村医師は、偉大な実践者だ。口だけのレベルの人たちとは、レベルが違う。

憲法9条を改正すべきだ、だからガンジーは偉大だと思わない、などという人は、よほど偏屈な人だ。政策論と、ある人間の人生の偉大さは、全く別の次元の話だ。

憲法9条は、平和主義を掲げる日本の大きな財産である。

ただし、政策論であれば、たとえば実際の平和を支えている日米安保体制下の米軍と自衛隊を無視するわけにはいかない。そんな偽善は、口だけの詭弁にすぎない。

アメリカを傭兵のようにして自国の安全保障を確保しながら、対外的には憲法9条を強調して無垢な平和主義者であることを強調するのは、控えめに言って、政策論としては、姑息である。もちろん姑息な政策が可能であり、最善である場合もある。しかし調子に乗っていれば、足を取られる。冷戦が終わって久しい今もまだ、日本にとって姑息な政策こそが最善であるかどうかは、政策論として検証すべき事項だ。

敵を圧倒する軍事力を持っている場合には、重装備の軍事力の展開が最善の安全確保策である。しかしそれが望めない場合には、なるべく目立たないようにしながら、広範に信頼を得る努力をしていくのが最善の安全確保策となる。それは政策論である。

援助関係者の安全確保策にも、政策判断の要素はある。武装警護を付けるか、低姿勢(low profile)で行くかは、その時々の状況によって、有効性が変わる。

想像してみてほしい。アフガニスタンのような状況、たとえば戦国時代の日本に突然舞い降りてしまった場合を。あなたがもし、他の仲間たちと戦国武将を圧倒できる重装備を保持した形で舞い降りてしまったのであれば、その威力を見せ付け、陣地を確保することが最善の安全保障政策だ。ただしその政策に効果がない場合には、いちかばちかで戦国武将に取り入ったり、現地住民になりすましたりするしかない。

中村医師の死去にあたって、タリバン勢力が中村医師に同情的な声明を出した。中村医師は、タリバンからも信頼されていた。すごいことである。政府関係者はやりたくてもできない。ただし信頼をベースにした安全確保策が完璧ではないのは、武力だけに訴える安全確保策が完璧ではないのと、同じだ。

結局、安全確保策に完璧ということはない。場面によって有効性は異なる。中村医師のようなNGO活動者が、信頼を勝ち取ることこそが最善の安全確保策であると考えることには、合理性がある。代替策は、撤退である。もう限界だ、と思った瞬間は、撤退だけが合理的な選択になる。

他方、国家政策をNGOの活動と同じものと捉えることはできない。国家存在それ自体に撤退のオプションはない。全ての政策が、国家存在には撤退がない、という認識から出発する。

ただし、国家の場合であっても、対外的な行動であれば、とりうる政策の有効性が、撤退のオプションとともに、検討される。国際法上の自衛権は、侵略を正当化しない。対外行動をしてでも自衛権を行使する場合があるのは、その行動が国家の生存に必要だから、である。国家の場合には、そうした事情に即して、政策の合法性や有効性が検討されることになる。

アフガニスタンで軍事力を行使しているアメリカだけの話ではない。日本も長期にわたり、一時期は大々的に、アフガニスタン政府を支援した。とにかくややこしいところからは撤退しよう、島国に引きこもっていればそれでいいじゃないか、という政策が、常に最善の安全保障政策ではないと考えたために、支援をしてきている。そのことの妥当性は、政策論のレベルで、検討しなければならない。

篠田 英朗(しのだ  ひであき)東京外国語大学総合国際学研究院教授
1968年生まれ。専門は国際関係論。早稲田大学卒業後、ロンドン大学で国際関係学Ph.D.取得。広島大学平和科学研究センター准教授などを経て、現職。著書に『ほんとうの憲法』(ちくま新書)『集団的自衛権の思想史』(風行社、読売・吉野作造賞受賞)、『平和構築と法の支配』(創文社、大佛次郎論壇賞受賞)、『「国家主権」という思想』(勁草書房、サントリー学芸賞受賞)など。篠田英朗の研究室