国家と国民 〜『リベラリズムとは何か。』(盛山和夫著)を読んで

松川 るい

『リベラリズムとは何か。』(盛山和夫著)の「数章」(全部じゃなくてすみません)を読んでの感想文。「リベラル」って何?と思っている多くの人に一読をお勧めしたい。必要に迫られてではあるけど、いろいろ考えてみたのでもったいないので文章にした。

1. 本書の指摘で重要だと考える点

(1)リベラリズムには様々なリベラリズムがあり、はっきりした定義は難しい(古典的な自由を重視するリベラリズムやニューディール政策のような社会民主主義の意の強いリベラリズムなどなど)。が、あらゆるリベラリズムに共通する最大の特徴は、その「個人主義」にある。リベラリズムは「個人」を究極的な唯一の実在とみなす。

(2)個人が究極的な唯一の実在だ」との命題の太一するものは、「神」と「共同体」である。したがって、リベラリズムの本旨は、「神」や「共同体」よりも、「個人」を重視することにある。

(3)「神」を超えて「個人」を重視するというのは、「神の助けを借りないでいかにして社会を作るか」は、近代化の過程の中核といって良いので、いってみればリベラリズムは近代化を進める上で必要になったイデオロギーとも考えられる。

(4)「共同体」についていえば、リベラリズムの個人主義が否定しているのは、「個人に先立って、個人よりも優位に立つものとしての社会」である。個人よりも優位に立つような社会を認める理論、つまり、①諸個人の利益には還元できず、かつ諸個人の利益のいかなる集積よりも優先されるべき「社会としての利益」が存在しており、②しばしば社会には社会としての独自の意思や目的があると想定し、③諸個人はむしろ社会に依存しており社会によって形成されたものとして存在しているというような考え方である。たとえば「国益」が該当する。

2. 感想

(1)「リベラリズム」とか「リベラル」という言葉には、イメージは明確にあるのだけれど、その本質と外縁はつかみどころがないという感じを持っていたが、本書を読んでかなり頭が整理された。

そして、本書の著者がリベラリズムに賛同できないという理由も(本書を通読したわけではないが)察することができた。自分も(おそらく)同じような不安をリベラリズムというイデオロギーに感じるからだ。

(2)それは、リベラリズムというのは、究極的には「国家」(共同体)を否定する要素を内包する概念だからだ。保守主義が、「国」「共同体」「家族」を重視するのに対し。正確にいえば、現代のリベラリズムも現代の保守主義も個人が重要な存在であるという点においては何ら変わりはないと思う。

ただ、究極的に個人が優先するのか共同体(とか個人集合体を超える何か)が優先するのかについて、リベラリズムと保守主義は明確な対置をなすように思う。誤解されがちなので強調しておくと、ここで言っているのは「共同体」である。「国家権力」については保守主義は警戒的であり、むしろ「リベラル」を標榜する勢力の方が「大きな国家」を志向する傾向にある。 

たとえば、「国家・国民」という言い方をするとき、我々は、普段は余り意識していないが、実は、国民とは別に「国」という独立の概念が存在すると考えているからそのような言い方をしているのではないか。「国」というのは、「国益」、「国体」、「国柄」、「主権」、「歴史」、「伝統」などなどを含む個人とは切り離された概念である。「国のために」というときの「国」も然り。しかし、リベラリズムは、究極的には、個人のためには「国家」を否定しかねない要素を孕んでいる。

「国のためになる」というとき、個々の個人のためにもなる場合もあるであろうが、往々にして、「個人にとっては迷惑なこと嫌なことかもしれないが、国のためにはなる」ということはあるものである。

例えば、ワクチンの接種は、殆どの国民にとっては利益であるが、たまに副作用が出る人もいる。しかし、国民全体としては利益であるから肯定される。ただ、これはまだ「個人の集合体を超えた社会」ではなく「個人の集合体としての社会」と観念できるかもしれない。 

もう少し進めてみると、例えば、様々物議をかもした「愛知トリエンナーレ」において、たとえば天皇陛下のお写真を焼くという作品について「表現の自由」を強調する人は、個人の気持ちが優先されて当然と考えているという意味でリベラリズム的である。逆に、国民統合の象徴の天皇陛下のお写真を焼くことは全体としてみれば国民感情や「国」柄にそぐわないと考えるのはリベラリズム的ではない。 

もっと重要なのは憲法観である。立憲民主党などが主張する、「憲法は、個人の自由の観点から国家権力を縛るものだ」という考えは個人主義的であり、リベラリズムである。一方で、自民党が主張する「憲法は(権力を縛る側面もあるが)国のかたちを書くものだ」という考えはリベラリズムではない。 

(3)それでは、リベラリズムは何の問に答えるためにあるのか。リベラリズムは、放置すれば膨張するかもしれない「国」から個人を守るためにあるという考えがあろう。これは歴史の中の特に、近代化の過程においては社会の発展に有益な役割を果たしたかもしれない。しかし、現在起きていることは、少なくとも日本においては、むしろ、膨張する「個人」を抑えられなくなって社会が均衡を失いつつある状況ではないのか。

ヘーゲルは、「自由」を重視し、自由と義務が合致するような国の在り方を考えることで、国と個人の調和を図った。「国家・国民」と我々が呼ぶときの国家と国民は、確かに調和した概念として捉えられている。しかし、現実はそのような理想どおりにはならないときもある。リベラリズムの危険や限界を直視することは重要なことだと感じた。

しかし、まあ、こういう風に書いていても、自民党もLiberal(リベラル) Democratic Partyだし、「リベラル」の用語の意味がまず混乱して多様過ぎるよね、と思う次第です。。

松川 るい   参議院議員(自由民主党  大阪選挙区)
1971年生まれ。東京大学法学部卒業後、外務省入省。条約局法規課、アジア大洋州局地域政策課、軍縮代表部(スイス)一等書記官、国際情報統括官(インテリジェンス部門)組織首席事務官、日中韓協力事務局事務局次長(大韓民国)、総合外交政策局女性参画推進室長を歴任。2016年に外務省を退職し、同年の参議院議員選挙で初当選。公式サイトツイッター「@Matsukawa_Rui


編集部より:このブログは参議院議員、松川るい氏(自由民主党、大阪選挙区)の公式ブログ 2019年12月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は、「松川るいが行く!」をご覧ください。