度量というもの

2019年12月13日 16:00

嘗て私は「今日の安岡正篤(534)」として、次のようにツイートしました--“あの人は度量が大きい”と申します。これは知識・器(うつわ)の勝れていることであります。一般に広く通用しているものでは「器量」という語。人間が精神的に発達するにつれて次第に器ができ、その器は物を入れること、計ることができます。量はますであります。また、長さ、進歩を表す意味の「度量」の度は物差しであります。そこで器にこの度をつけて「器度」、あるいは量をつけて「器量」などと言います。

此の器量とか度量とかいうものは、例えばひと月前のブログ『小泉進次郎環境相に思う』でも挙げた佐藤一斎の『重職心得箇条』に、「度量の大たること肝要なり。人を任用できぬが故に多事となる」(第八条)、及び「人を容るる気象と物を蓄る器量こそが大臣の体なり」(第十一条)と書かれています。

中国明代の著名な思想家・呂新吾(りょしんご)が『呻吟語』で論ずるように、第一等の大臣というのは「寛厚深沈(かんこうしんちん)、遠識兼照(えんしきけんしょう)…度量広く落ち着いて、遠大な見識をもってあらゆるものを照らして行く」のです。

では、如何なるやり方で此の度量を大きくして行けば良いのでしょうか。私が考えるに一つには先ず、自分が度量が大きいと思う人を見出すことだと思います。そして、その人に比して自分自身はどういう点で度量が小さいか又どうすればその足りないものを埋めて行くことが出来るか等々考えて、その人に一歩でも二歩でも近付くべく常日頃から自分で自分の資質を磨く努力を怠らないことでしょう。

また、その人の謦咳に接することが叶わぬ場合は特に、例えば歴史上偉人と称せられる人物の自叙伝や伝記を沢山読み込んで様々な教えを学び、それを知行合一的な修養を積んで血肉化して行くということが極めて大事だと思います。陽明学の祖・王陽明の言葉通り「知は行の始めなり。行は知の成るなり」で、そういう努力がずっと積み重なる中で自然と度量とか器量とかいうものが身に付き、自分もある程度の人物になって行くのです。

「自分を育てるものは結局自分である」と、明治から昭和の国語教育者・芦田惠之助先生も言われるように、自分を築くのは自分しかないわけで、本人が不断に努力し続けることが全てであります。そして自分を築くべく自分は何を為すべきかを見出す過程で、偉大なる人の生き様や思想等に学び、それが「真似ぶ」になり知行合一的に自分自身も感化されて行く、ということだろうと思います。

最後に本ブログの締めとして、私の社長室隣接の会議室に飾ってある『易経』の言葉、「天行健なり。君子は以って自彊して息(や)まず。地勢坤なり。君子は以って厚徳載物」を御紹介しておきます--太陽は一日も休むことなく動いている。それと同じように君子たるものは一日も休むことなく、努力し続けないといけません。この母なる大地はあらゆる生きとしいけるものをはぐくみ育てている。それと同じように君子は大きな度量を持って、全てのものを受け入れないといけません。

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