分断された南北朝鮮で李承晩と金日成の帰国までに何が起きたか:朝鮮半島分断小史②

2020年01月08日 06:00

>>>「38度線はこうして引かれた:朝鮮半島分断小史」はこちら

本稿では38度線で分断された朝鮮半島の北と南で、45年8月から9月末にかけて朝鮮人の間で何が起きたかを見てゆく。なお、本稿人名( )は留学先と生没年(暗殺された者の没年月は太字)。

李承晩と金日成(Wikipedia)

南の大韓民国では米国にいた李承晩(1875年-65年)が、北の朝鮮民主主義人民共和国では中国東北部とソ連沿海州にいた金日成(1912年-94年)が為政者になった。二人は37歳も離れているが45年9月〜10月に帰国するまでの30年間、日治朝鮮の外にいたという極めて重要な共通点がある。

韓国が民主主義政府で北朝鮮が社会主義政府なのは、GHQの一般命令第一号に沿って南の日本軍が米軍に、また北の日本軍がソ連軍に降伏し、米ソ両国が一時期南北に進駐していたことに一義的に起因するのは勿論だ。が、36年にわたり国の統治とほぼ無縁だった朝鮮人民側の事情も大きい。

50年間の日治後に蒋介石が接収した台湾でも、官民要路の台湾人はごく少数で、人々は日本語と台湾語しか解さないし、進駐した国民党も元は同じ中国人とはいえ北京語しか話さなかった。が、こちらは43年12月のカイロ宣言以降、後に行政長官になった陳儀らが接収の研究をして備えていた。

朝鮮はといえば、当の米国すら慌てるほど突然だった日本降伏に朝鮮人が備えられる道理がない。が、米ソ軍政後に南北の指導層に就いた者の多くは、総督府の下級官憲や地主や知識人や企業経営者らの親日派ではなく、地下や逃れた外国でいつ成就するとも知れない独立運動に勤しんでいた者達だった。

総督府がポツダム宣言受諾を知った8月10日の短波放送を、民族運動家の呂運享(1886年-477)も聞いていた。総督府は8日のソ連侵攻をみて朝鮮がその管理下に置かれると考え、左寄りで人望もある呂運享に治安維持の協力要請をすべく、14日に翌日の面会を申し入れた(森田前掲書)。

呂は同志と対策を練り政治犯釈放や政治活動への不干渉などの条件を提示、15日のうちに「朝鮮建国準備委員会(建準)」を発足させ、穏健右派の安在鴻(早大:1892年-65年)と共に正副委員長に就いた。地下にいた一部の左派独立運動家もこれに参集、建準は22日には1局12部の組織に拡大した。

宋鎮禹(Wikipedia)

総督府は無力化、宋鎮禹*(明大:1890年-4512)や金性洙(早大:1891年-55年)ら保守右派の有力者もこの時点では表に出なかった。建準は以後3次の再編成を経て右派保守、民族主義右派(安在鴻ら)、同左派(呂運享ら)に社会主義者も加えて総勢130名余を集め、9月6日には「人民共和国」に衣替えした。*東亜日報社長などを歴任

が、この人民共和国名簿の主席李承晩は米国、内務部長金九(1876年-496)は重慶と、共に国外の臨時政府にいたし、司法部長金炳魯*と文教部長金性洙の民族保守派には辞退されるなど、副主席に就いた呂の先走った組織案だった。同時期に朝鮮共産党を建てた朴憲永**(1900年-56年)も参加しなかった。*韓国初代の大法院長 **北朝鮮で処刑

この辺りを任文恒は「日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想」で次のように書く。任は1907年に韓国で生まれて16歳で来日、苦学して東京帝大から拓務省に入り、朝鮮総督府に配属されて要職を歴任、戦後も李承晩政権下で商工部と保健部の次長、農林部長などを務めた歴史の生き証人だ。

8月14日、京畿道警察部長の岡久雄は、宋鎮禹氏を訪れて政権授受を交渉するが言下に断られる。理由は“政権は韓国民自らその担当者を決定すべきで、日本人から授けられるべきものでない”とのこと。総督府はその日の内に呂運享氏に同じ交渉をし、今度は成功した。

事情を知らずに呂氏が宋氏に協力を要請すると、宋氏は“互いに日本に協力しなかったことは誇りとするも、日本の法の下に生きてきたから政権担当の資格はない。上海臨時政府の帰国を待って指示を仰ぐべきだ”と呂氏の軽率をたしなめた。

「宋鎮禹に政権授受を交渉」とあるが、森田前掲書は治安維持の協力要請としている。この時点で総督府が政権授受を持ち出すはずはなく錯誤と思われる。彼は呂が好きではないようでこう続けている。

9月6日、建準は人民共和国を宣布し閣僚名簿を発表した。北の共産組織は既に固まっていた。南でも米軍上陸前に同じ組織を発表して、既成事実化するため一夜にして出来上がった。余りにも急いだため本人達に電話一本なしに名前を使った。内容が判るにつれ呂氏に対する大衆の信用は冷めてゆき、閣僚達は一回の閣議も開かず民衆の冷笑を買った。

その北では、平壌のある平安南道の古川兼秀知事は、同じ8日のソ連侵攻を知って道政への朝鮮人の協力が必須と考えた。古川は13日、軍の反対を押して、平壌で唯一活動していた民族運動の長老で「朝鮮のガンジー」と呼ばれていた曺晩植(明大:1883年-5010)に協力を求めた(李景珉前掲書)。

曺晩植(Wikipedia)

初めは固辞した曺だが、17日に保守派の実業家呉胤善を訪れてそこに平壌の仲間を集め、ソウルの呂運享らと連絡を取り合って建準平安南道支部を建て、正副委員長には曺と呉が就いた。その後の経過も含め考えると、北では曺と呉が、南の呂と穏健保守派の金性洙や安在鴻の役割を担ったと解る。

ソ連は、当初総督府の機能をそのまま利用するつもりで咸鏡南道に進駐したチスチャコフ司令官が8月24日、岸勇一知事とその旨の協定を結び25日に民衆に公表した。ところが同日夜にこれを撤回、道の行政事務や放送局、金融機関、民間工場などの権限の一切を人民委員会に引き継がせた。

この人民委員会は16日に咸興の牢を解かれた社会主義者らが、一部の民族主義者と協力して建てた「咸鏡南道人民委員会左翼」から発展した「咸鏡南道人民委員会」で、ソ連軍から民衆の代表機関として認められていた。任が「北の共産組織は既に固まっていた」としているのはこれを指していよう。

ソ連は平安南道でも25日に、一旦は古川知事に現状維持を言いながら、夜には道の建準道支部への道政移譲を求め、順次、平安北道(9/1)や黄海道(9/2)でも人民政治委員会(建準や人民委を改組)へ道政を移譲させる政策をとった。これを見るとソ連にも進駐に際して確固たる方針がなかったと知れる。

この時点で金日成はまだソ連にいて帰国は9月19日だ。ここで金日成の経歴を見てみる。回顧録によれば、彼は1912年4月に平壌西南近郊の万景台で生まれ、その後家族と共に満州に渡った。が、14歳と20歳の時に父と母をそれぞれ失い、平壌と満州の小学校を経て満州の中学校を2年で終えている。

中学生にして抗日団体に入り、17歳で逮捕投獄された。出獄後は満州の様々な抗日救国団体に加わって名前を金成柱から金日成に変えた(「金日成と金正日」徐大粛(岩波書店))。朝鮮研究の泰斗徐ハワイ大教授によれば、北朝鮮の金日成の抗日歴には誇張があるものの、武装闘争は事実だという。

徐教授は、金が34年から40年まで約6年間満洲で闘争し、41年に東北抗日聯軍が日本の討伐軍に敗れて退いたソ連沿海州で終戦を迎えたとし、彼が同軍の一師団長として日本の警官を殺害した37年の普天堡戦闘などの闘争を、満洲から国境を越えて行ったことに重要性があるとして、こう評する。

(金は)本来有能な人物だが、与えられた機会と条件を巧みに利用して北朝鮮の指導者になった。彼が満洲で東北抗日聯軍の一員として中国人と抗日を共闘したこと、沿海州に追われそこでロシア人から訓練を受けたこと、これらは解放後の分断朝鮮に帰国し、北半分で政治を行うとき非常に有利な条件となった。

彼の抗日闘争の経歴は「革命神話」ではない。分断された南北両者が彼の抗日闘争を「革命神話」に仕立て上げたのである。韓国では彼の抗日闘争を否定することにより、北朝鮮では逆に誇張することにより、「革命神話」を造り出した。金日成は朝鮮独立のために力一杯戦った朝鮮人なのである。

次回は、金日成がソ連に選ばれた事情、そして李承晩の経歴と台頭過程などをまとめます。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。

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