古典を読む

ダイヤモンド・オンラインに昨年11月、『大企業の社長が「古典」を読むのには理由がある』と題された記事がありました。不肖私も紹介されております。立派な経営者、人物には教養人が多く、当然ながら彼らは様々な書物、取り分け精神の糧になるものを読んでいます。自分自身を更に成長させるべく、歴史の篩に掛かった古典を読むわけです。

『旧約聖書』に「天の下に新しきものなし」という言葉があります。現存する全ては形は違えど過去に出来たものであり、洋の東西古今を問わず人間性も変わらないのです。それ故古典に普遍妥当性が生まれ、それを今日まで生長らえさせ、二千数百年に亘りどの時代の人間が読んでも素晴らしいと思わせてきたのです。

孟子(Wikipedia)

従って古典を読まないと、世の真理や不変なものが十分に身に付いて行かず、非常に浅薄な人間にならざるを得ないのではないかと思います。以下、此の古典に限った事柄ではありませんが、書の読み方として私が大事だと思うポイントを三つ挙げておきます。

第一に、批判的に読むということです。「著者の主張は尤もだ。この本は良かった」「あぁ、この本も良かった」「これは良い本だなぁ。この人の考えは道理に適っている」等々と、その内容を次々鵜呑みにしてしまうのではいけません。『孟子』に「尽(ことごと)く書を信ずれば即ち書無きに如(し)かず」とあるように、「書物を読んでも、批判の目を持たずそのすべてを信ずるならば、かえって書物を読まないほうがよい」のです。ちなみに、孟子の言う書とは『書経』を指しています。

第二に、主体的に読むということです。「その場面に直面したら、自分ならどうするか」「私はこう考えるが、なぜ著者はこのように考えるのか」等々と、常々主体的に考えながら読むのです。虎関禅師が「古教照心 心照古教」と言われたように、「心照古教」の境地に達することが良いとされています。そうかそうかと受動的な読み方、「古教照心」では活きた力にはなりません。

先哲の知恵を現代世界に投影してくる中で、何時の間にかその知恵と同じレベルに自分を置いて行くのです。そして自分の心が書物の方を照らす、「心照古教」という位にまで自分のものとし、先哲に「こんな考えもありますが、如何で御座いましょうか」と言える位にまでなって行けたら最高でしょう。残念ながら、こうした境地は小生も未だ達していないレベルです。

第三に、知行合一的に現実に活かすということです。知識は知識である限り、何も活かせません。歴史の篩に掛かった古典であっても、読破あるいは積読だけでは仕方がないでしょう。知で得たものを自分の血となり肉となるようにして行くのです。之は、行を通じて初めて出来るものであります。「知は行の始めなり。行は知の成るなり」(王陽明)です。

我々は君子を目指し日々、人物を磨かねばなりません。先達より虚心坦懐に教えを乞うと共に、社会生活の中で知行合一的に事上磨錬し続け、己を鍛え上げるべく励んで行くのです。その時に、上記三点を守りながら書を読む、取り分け精神の糧になるような古典を読むことが、私は非常に大事だと思います。

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