北の金王朝で「金与正」時代は来るか

長谷川 良

北朝鮮で今、金正恩朝鮮労働党委員長が何らかの理由で急死した場合、同委員長の実妹・金与正さん(党中央委員会宣伝扇動部第1副部長)が実権を掌握し、北朝鮮で金王朝初の女性独裁者が誕生するのではないか、いや既に金与正さん(31)が実権を掌握している、といった、少々、せっかちな報道が流れている。

その内容が事実か否か、残念ながら100%確信をもって答えることが出来る人はいないだろう。だから、噂、憶測、推測、独断などが溢れることになるわけだ。

▲VIP席の金永南最高人民会議常任委員長(当時)と金正恩氏の妹、金与正党第1副部長(右)

▲VIP席の金永南最高人民会議常任委員長(当時)と金正恩氏の妹、金与正党第1副部長(右)

▲韓国・平昌冬季五輪大会の開幕式(2018年2月9日、ドイツ公営放送の中継から)

▲韓国・平昌冬季五輪大会の開幕式(2018年2月9日、ドイツ公営放送の中継から)

「火のない所に煙は立たぬ」といわれるように、金与正さんが実兄の後継者になる、と囁かれる背景には、それなりの理由があるに違いない。金正恩氏は身長170センチ以下、130キロの体重を抱え、暴飲暴食で運動不足、その結果、狭心症だという噂があるからだ。金正恩氏の外観からそれは十分考えられるし、説得力はそれなりにある。心臓病の専門医がフランスから飛んできたという情報もその噂に一層、現実味を加えている。

話を進める前に少し説明する。西側情報機関では、「北情報で長々と説明がついてくる情報は偽情報だ」といわれている。偽情報だから、その真実性を高めるために長々とした説明が必要となるため、偽情報はどうしても長くなる、というのだ。

フランスは金王朝ファミリーの西側医療団の役割を果たしてきた。故金日成主席の時もそうだった。リヨン大学附属病院から心臓外科医が平壌に飛び、金日成主席の心臓手術をしている。金正恩氏の母、故金正日の高英姫夫人はフランスで乳がんの手術をしたという情報があるなど、フランスと北朝鮮との関係は“病が取り持つ深い関係”といった具合だ。

ところで、今噂の中心にある金与正さんは、南北首脳会談や米朝首脳会談の舞台裏で兄金正恩氏の世話をしている姿が見られた。体調が良くない時やストレスでパニック症状を発する兄にタバコに火をつけてあげたり、耳元でそれとなく「大丈夫」と激励している。金正恩氏は実妹与正さんを信頼していることは間違いない。与正さんのように、金正恩氏から信頼を受けている人物は多分、北朝鮮指導部内にはいないだろう。

だから金正恩氏に何かが生じた時、与正さんが一時的にその代理役を演じても不思議ではないが、幼い子持ちの母親で31歳の与正さんが朝鮮人民軍幹部や労働党幹部たちを掌握できるだろうか。与正さんが実権を掌握したとしても、それをサポートする強力な側近が欠かせられない。北朝鮮全土を掌握できるだけのパワフルなサポーターがいない限り、与正さん後継者論は少々非現実的だ。

興味深い点は、昨年11月末から12月にかけ、金ファミリーでこれまで海外に島流しにされてきた2人の金ファミリーが平壌に戻ってきたことだ。1人は金平一前チェコ大使だ。故金日成主席と金聖愛夫人の間の長男だ。もう1人は金平一氏の実妹、前オーストリア金光燮大使の敬淑夫人だ。

金正恩氏の叔父、叔母家庭は30代に入ったばかりの金与正さんに頼らなくとも、金王朝を継承できる家族だ。熟年であり、外交官としての経験などは豊富だ。特に、金平一氏の場合、その外貌が金日成に似ていること、軍キャリアを持っていることなどから、朝鮮人民軍幹部たちの間で久しく「ひょっとしたら、彼が……」と思われてきた人物だ。

いずれにしても、労働党、人民軍の支援がない限り、政権は長続きできないから、金与正さんがたとえ、一時的に実権を握ったとしても、叔父、叔母の存在を無視できないはずだ。

このコラム欄で「金正恩氏、出自コンプレックス克服?」(2020年1月28日参考)を書いた。それは金正恩氏だけに当てはまるのではなく、与正さんにもいえる。正恩氏も与正さんも父親は故金正日総書記だが、母親は在日朝鮮人の高英姫夫人だ。金王朝は「白頭の血統」がその権力維持を支える最大のセールスポイントだが、正恩氏も与正さんもその点、残念ながら欠けているのだ。

上記の推測は、あくまでも金正恩氏が狭心病で倒れ、ベットの上の身になっているという前提だが、その前提が揺れてきている。朝鮮中央放送は16日、金正恩氏が故金正日総書記の誕生日(光明星節、2月16日)に合わせ故金日成主席と金総書記の遺体が安置されている平壌の錦繍山太陽宮殿を参拝したと報じている。

韓国聯合ニュースによると、「金委員長が公の場に姿を現したのは、先月25日の旧正月の記念公演以来、22日ぶり。北朝鮮が新型コロナウイルスの流入防止のため国家非常防疫体制を敷いた先月28日以降、初めてとなる」という。

そのニュースが事実ならば、金正恩氏はベット上の身ではなかったわけだ。少なくとも、まだ生きている。一部の北消息筋は「彼は偽金正恩だ」というドッペルゲンガー説を主張するが、朝鮮中央放送が配信した写真を見る限り、金正恩氏は本物の可能性が高い(「北の“ヘア革命”とドッペルゲンガー」2015年11月23日参考)。

金与正さんに北で初の女性指導者を期待する筋には忘れてはならない情報がある。金与正さんはヒロポン中毒だということだ。メタンフェタミン類の覚せい剤で中毒性は強い。北朝鮮は国内には麻薬問題はないと豪語してきたが、実際は社会の隅々まで麻薬中毒が広がり、大きな社会問題となっている。特に、労働党幹部の家庭で麻薬中毒が広がり、党幹部の2世、3世が中毒になっている。金与正さんもヒロポン中毒者だというのだ(「金正恩氏の妹、金与正さんの『欠席』」2019年4月27日参考)。

金与正さんが突然、正恩氏の前から消え、その所在が不明、というニュースが過去流れたことがあった。与正さんが欠席したのは、妊娠のためではなく、麻薬中毒による副作用に悩まされ、職務履行が困難だったからだ。

軍、党幹部たちはそのことを薄々知っているので、与正さんを金正恩氏の後継者に担ぎ上げることはないだろう。与正さんをマリオネット(操り人形)として担ぎ出し、実権を掌握したいと考える党、軍幹部はいるかもしれないから、もちろん「与正さん後継者説」は完全には排除できない。

金正恩氏は昨年末、党中央委員会総会で「積極的、攻撃的な政治、外交、軍事的対応措置を準備する」と強調し、大幅な人事を実行する一方、慣例の「新年の辞」をとりやめている。その直後、中国武漢発の新型コロナウイルスが拡大し、北朝鮮はその感染拡大に怯えている。感染防止のために中国との国境を閉鎖せざるを得なくなった金正恩氏は政権掌握後、最大の危機に直面していることは間違いない(「新型肺炎報道で露呈した北の『実力』」2020年2月1日参考)。

国家存亡の危機に直面している国(北朝鮮)のかじ取りを率先して欲しがる人物がいるだろうか。賢い金与正さんのことだから、兄から後継者のオファーを得たとしても、やんわりと断るのではないか。沈みかけた船の船長に誰もなりたくないのだ。

北朝鮮には目下、残念なことだが、満身創痍の金正恩氏しかいないのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年2月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。