喜んで成仏する弁護士は役に立っていない

弁護士の世界で悪名高いものに、高橋宏志氏の成仏理論がある。原典は、雑誌「法学教室」の2006年4月号の「巻頭言」として公表された「成仏」という異様な表題の短い随想で、筆者は、当時、東京大学教授であった高橋宏志氏である。

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そこには、「人々の役に立つ仕事をしていれば、法律家も飢え死にすることはないであろう。飢え死にさえしなければ、人間、まずはそれでよいのではないか。その上に人々から感謝されることがあるのであれば、人間、喜んで成仏できるというものであろう」とある。

しかし、経済原則からいえば、真に「人々の役に立つ仕事」をする限り、そこに社会的価値の創出があるわけだから、「飢え死にすることはない」どころか、実現した価値に応じた所得があってしかるべきである。それが経済の合理性である。

実は、弁護士は、英米法でいうフィデューシャリーであって、専らに顧客のために働く高度な義務を負うものである。専らに顧客のために働くことは、自己の利益を鑑みないことだから、突き詰めれば、無償で働かなくてはならなそうだが、さずがに、それでは、業務としてなりたたないので、専らに顧客のために働くのに要する原価を基準に、合理的に算出された報酬を受け取ってよいものと理解されている。

このフィデューシャリーの合理的報酬の考え方を突き詰めれば、顧客に提供する価値の増大こそが努力義務となり、その結果として、顧客の利益も、自分自身の利益も、相互に矛盾対立することなく、増大するはずである。

故に、「飢え死にさえしなければ、人間、まずはそれでよいのではないか」も間違っている。「飢え死にさえしなければ」程度では、人間、少しもよくはない。人間として、フィデューシャリーとして、最善を尽くす義務があるのである。

では、職務遂行において最善を尽くしても、「飢え死にさえしなければ」程度の所得にしかならないのかといえば、個々のフィデューシャリーにおいて、そのような不幸な人のあり得ることは否定できないが、フィデューシャリー業全体が存立し得る限り、そして、「人々の役に立つ仕事」をしている限り、あり得ないことである。

さて、「人々から感謝されることがあるのであれば、人間、喜んで成仏できる」か。そもそも、真に「人々の役に立つ仕事」をして、感謝されないことはあり得ない。また、感謝されて、喜んで成仏するわけにはいかないし、その必要もない。

では、成仏するのはいいことか。 「成仏」の結びは、「私はどうか。不可(F)を付けまくる、役に立たない鬼教授と言われているようであるが、極楽浄土に成仏できることを私は心から願っている」となっているが、意味不明である。

 

森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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