日中のはざまで感じた新型ウィルス問題②偏見の日本人に見えぬ真相

加藤 隆則

>>>「日中のはざまで感じた新型ウィルス問題①冷静な対中認識を」はこちら

今回、日中の庶民が生活者としてのお互いを思いやり、それがSNSを通じた相互作用のなかで、良好な国民感情が生まれた。このことは、多くのメディアがすでに伝えたことなので繰り返さない。前回ブログでもその一端を付け加えた。

一方で、政治かかわる話は、特に感染をめぐる政治謀略論には、見て見ぬふりを決め込んできた。全く建設的でないし、しょせんは大きな力を得ないだろうと思ってきた。

山田宏参議院議員(官邸サイトより)

ところが、とうとう目に余る事件が起きた。黙ってはいられない。自民党の山田宏参院議員が3日の参院予算委で、新型コロナウイルス感染を「武漢肺炎」と決めつけた。前日、オンライン授業で会話を交わした学生の中にも武漢在住者がいた。困難な状況の中で、笑顔を忘れずに過ごしている彼ら、彼女らを思い出し、憤りどころか、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

世界保健機関(WHO)の基準を持ち出すまでもない。政治家は票のためなら何を言っても許されるのだろうか。それが言論の自由だというのならば、それにともなう責任も同時に背負わなければならない。選挙を通過すれば、何をしても許されるのだろうか。

それが民主主義だというのならば、政治家こそ民主主義を腐敗させる元凶だと自覚したほぅがいい。生活者への想像力を欠いた、人情の理解できない政治家は、ぜひともすぐにご退場願いたい。

両国の庶民が築いて生きた貴重な財産を、政治家のひと言が無視してしまったケースは過去に山ほどある。そして、その同じ政治家が、今度はこれ見よがしに、自分の成果だと言って中国の指導者と握手を交わすシーンも、いやというほど見てきた。もうそろそろ、国民自身が目を覚まし、様々なチャンネルを通じて政治に参画しなかればならない。

中国での感染拡大に一定のコントロールが効き始める一方、日本では対応に混乱がみられる。安倍首相が緊急対応を呼びかけをしても、国民の健康に対する配慮より、政治的な思惑が色濃く感じられる。本人そしてその側近は、その偽善的な発言に対する多くの国民の不信に気付いているだろうか。

12月の日中首脳会談より(官邸サイト)

昨晩、日本政府が春に予定されていた習近平国家主席の訪日延期を発表した。貴重な機会なので双方が慎重になるのは理解できる。機が熟するのを待ちたい。中国側は、先月末、楊潔篪(ヤン・ジエチー)党政治局員が訪日して以来、国内メディアに対して訪問時期の推測や新型コロナウィルス感染との関連については言及を禁じ、統一見解を徹底させてきた。

日本政府の延期発表を受けても、中国外交部はなお、「ふさわしい時期や環境のもとで円満な成功を目指す」としか述べていない。相当な気の使いようからは、訪日を極めて重要視している姿勢が読み取れる。と同時に、山積する国内問題の解決に専念せざるを得ない状況なのだ。何よりも延期されている全国人民代表大会を成功させなければ、外交どころではない。

そのさなかに、「武漢肺炎」を執拗に公言し、隣国を追い詰めるような発言の真意はどこにあるのか。その政治家の国際感覚は田舎議員のレベルだし、かといって庶民感情からも程遠い。いったいどのような意図があって発言をしているのか、頭を冷やして考えたほうがいい。安倍首相以下、自民党全体の問題である。

言うまでもなく、感染症は国境を越えた共通のリスクである。各国が手を携え、解決しなければならない、というのが世界の常識だ。ある国、地域をつるし上げ、それで解決するわけではない。色眼鏡をかけ、奇異な目で他人事の騒動を見ているから、そこから教訓を取り入れ、切実に学ぼうとする姿勢を欠くことになる。そのツケが今、国民生活のうえに降りかかっているのである。

中国の徹底した健康管理は言うまでもないだろう。当時、都市部では、外出も家族で1日か2日に1回、しかも3時間だけと限られているエリアも少なくなかった。外出時には警備員から時間を記入したチケットを渡され、それを持たなければ再帰宅はできない徹底ぶりだった。その後、だいぶ緩和されたようだが、地域によってはなお、「在宅」が常態化している。

一方、日本では感染例が増加しているにもかかわらず、つい最近まで通勤時間の地下鉄はすし詰め状態で、マスクをしていない乗客も目立った。横浜に寄港したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」の感染問題では議論が沸騰したが、官民を含め自分たちの日常生活に対する危機感は極めて薄かった。

中国の危機感と徹底した管理はさかんに報道されていたはずだが、他人事だと高をくくっていた。今になってトイレットペーパーの買い占めに走る姿は滑稽でさえある。

福岡市の地下鉄では走行中、乗客がマスクをせずにせきをしている他の乗客をみて非常通報ボタンを押す騒ぎが起きた。やや過剰な反応ではあるが、緊張感のなさに対するいら立ちが爆発した一つの事例にほかならない。突飛なニュースとして片づけるわけにはいかないのである。

危機感の薄さ、緊張感のなさに加え、日本では個人の人権やプライバシーの尊重、個人情報の保護が優先されるので、中国のような集権的、強権的な対策は取りづらい。憲法によって個人の広範な自由が認められている日本の社会では、一方で、自己責任の原則により、自主性に頼った施策に頼らざるを得ない。

とはいえ、プライバシー保護を理由に不十分な情報しか開示されない中、自分たちを守る手立てさえないのが実情だ。

両者をバランスよく取り入れるのが理想なのだろうが、どちらのスタンスを取るかは、社会的合意の比重をどこに置くかによる。一方の価値観を持ち出してもう一方を批判しても意味はない。中国では、言論の自由や個人の人権を犠牲にしても、生活の保障、健康や生命の安全を第一に考える人たちの方が多数派である。肝心なのはその違いを認識し、相手の立場に立ってものを考える視点である。

新型肺炎の対応に取り組む現場を視察する習主席(2月10日、中国国営新華社通信の公式サイトから)

中国でなにか問題が起きるたび、すぐに共産党政権の動揺、崩壊や一党独裁の危機と結び付けた発想をするのが日本メディア、そして日本世論にしばしばみられるステレオタイプだが、あまりにも短絡的である。そうあってほしいという願望や、そうでなければならないという先入観が生んだ偏見でしかない。

中国の新型肺炎による死亡例は約3,045人(3月6日現在)で、一方、米国のインフルエンザによる死者は今年すでに1万2,000人に達しているが、これをもってトランプ政権の危機を論じるのを見聞きしたことはない。同じことは日本にも言えるだろう。中国で情報隠しがあると一党独裁の弊害と断罪するが、情報隠しはどの国の政治権力でも起きている。権力そのものが持っている体質である。

今回の事例で明らかになったように、こうした偏見や先入見が、隣国の教訓から学ぶ目を曇らせているとしたら、世界の潮流からも取り残されることは肝に銘じておいたほうがいい。バイアスを排し、目を凝らせば、まったく違った真相が見えてくる。

今回の対応を通じて政治的な側面を観察すれば、習近平政権の盤石さが見て取れる。むしろ基盤が再強化された側面さえ指摘できる。真相は政権の動揺や危機とは裏腹である。

(続)


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2020年3月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。