コロナを機に注目 〜 北里柴三郎の「面白い」人柄と業績①

2020年03月17日 06:00

北里柴三郎(国立国会図書館サイトより:編集部)

昔も今も使われながら明治の頃とはかなり意味合いが異なる言葉がある。「面白い」や「感じる」などはその筆頭ではなかろうか。折からのコロナ騒動でにわかに疫病への興味が湧き、読み始めた新千円札の顔でもある「北里柴三郎読本」(書肆心水刊)(以下、「読本」)にはそれらが頻出する。

試しに「面白い」を辞書で引けば、第一は「興味をそそられるさま、興味深い」、次が「つい笑いたくなるさま、滑稽だ」とあるが、今日では大方後者の意で使われる。「読本」には「患者の死に方が面白い」などとあるから、差し詰め無知な人権団体の攻撃の的か。もちろん本稿の表題の意は前者だ。

ちなみに「感じる」の方は「反応する」ほどの意のようだ。例えば「人が菌に感じる」とあれば、「人が菌に反応して罹患する」といった意味合い。それらを踏まえて、明治・大正期に編まれた「読本」から、とにかく「面白い」北里の人柄や業績に関するエピソードを紹介したい。*「感応」は全く別の意。

上下二巻の「読本」は、弟子二人の手になる伝記と柴三郎の演説(講演)や論文からなる。演説は書き起こしだが、論文は漢語調で少々読みづらい。その中から筆者は「ペスト病の原因取り調べに就いて」と「ペストに就いて」なる演説、そして「医学博士中浜東一郎君に答う」なる論文の順で読み始めた。

筆者は「読本」を読んで、彼がなんと勝気でまめで良く気が回る人物かと驚嘆した。「伝記」を読むとやはり「剛毅果断」、「大の負けず嫌い」そして「俊敏なる素質」とある。特に勝気の性を強く感じたのは「医学博士中浜君に答う」なる反論文。中浜は内務省から一緒にドイツへ派遣された同僚だ。

柴三郎は1852年、肥後国阿蘇郡小国郡北里村で生まれた。代々の総庄屋だが貧しい家計は時習館を終えた柴三郎に軍人を志させる。が、長男を軍人にすることに反対の双親は父祖伝来の田畑を荒廃せしむることの不可を説いた。長崎での勉学を申し出たが、結局、父の勧める藩新設の医学校へ進んだ。

緒方正規(Wikipedia)

オランダ医官マンスフェルトの生徒には先に東京に出た緒方正規もいた。そこで「医学また学ぶに足る」と感じた柴三郎も恩師の言に従い上京を決意、父の「学資は送れぬ、身一つを貰った積りで勉強せよ」、母の「成業するまでお前は無い者と思って居る」との戒めを胸に苦学して東京医学校に入学した時、緒方は三年生になっていた。

後に東大医学部となる東京医学校は「未だ維新以来の殺伐たる気風の収まらぬ時代」で、「学生の気風もまた推して知るべし、賄征伐や同盟休学など朝飯前」だった。困った長与校長から相談された福沢諭吉が弟子を塾監に送り込み、「諸君の乱暴は真に甚だしい、規則を乱す者は仮借せぬ」と威嚇せしめた。

これに柴三郎は学生を代表し、「今日就任したばかりの貴君が如何にして生徒の行動が不良と知ったか」とすかさず反駁した。「校長その他より聞いた」という塾監に柴三郎は、「他人の談のみを以て我らを誣(し)いんとするか」と畳みかけて「新塾監の顔色なからしめ」、生来の剛毅ぶりを発揮した。

出席も強要せず試験さえ通れば進級する自由な校風の中、勉強よりも同盟社の主将や学資稼ぎ(弟を上京させ東大法学部に入れた)に忙しかった柴三郎だが、130余名いた同級生が順次落伍して4年間で半減しても「常に級の中位下」には下らず、明治16(1883)年に20余名の同級と共に卒業した。

同盟社とは最年長の柴三郎が立ち上げた雄弁会風の結社。演説会や討論会を開催する傍ら、講義要項の印刷配布や柔剣道の会合の外、ストライキなども打った。柴三郎が「常識に富み、事務に長じ、団結のためには一片の私心も挿まず、一意親切に奔走斡旋したことには教授も舌を巻いた」らしい。

最高教育を受けたとはいえ「これだけの知識や経験であらゆる疾病を診断治療し得るか」と懐疑した柴三郎は、同輩が月給2百円の高給で地方の病院長や医学校長に赴く中、マンスフェルトの勧めた洋行を考えた。だが、「自ら働いて糊口する身」からこれを諦め、「医学の政治、国を医する衛生事務」が「面白かろう」と内務省衛生局に進む。

新学士は棒給70円の判任官待遇だが、4月に愛知病院長から准奉仕官御用掛になった5歳年少の後藤新平が80円と知り、「最高学府を卒業し後藤等とは教育を異にするからその下風に立つことはできぬ」と申し立てた。生来の負けず嫌いから「豎子(しゅし)御し易からざることの表示」、つまり「若造だと思ってなめるな」と一発噛ましたのだ。(*1957年生。須賀川医学校卒 参考拙稿:後藤新平に見る世界に冠たる日本の「検疫」と「公衆衛生」

コッホ(Wikipedia)

熊本で共に学び東京大学教授となって欧州に留学していた緒方正規が明治17(1884)年に帰朝、翌年2月から内務省御用掛を拝命し衛生局東京試験所に勤務した。後に柴三郎も師事することになるロベルト・コッホに細菌学を学んだ緒方は研究を開始、局長の推薦で柴三郎はその助手の一人となった。

局の雑務を離れ学究生活に入った柴三郎は、まだ「珍しい実験医学の研究して興趣を感」じ、早々に業績を二つ上げた。一つは4月に某華族邸で斃死した家鴨からコレラ菌を見つけ培養したこと、他は9月にコレラが流行した長崎で患者の排泄物から「コッホ氏コンマバチルス」を発見し純培養したことだ。

同年11月に柴三郎は「ドイツ国被差遣」の辞令を受けるのだが、これに先述の中浜東一郎が関係する。長与衛生局長は技術者1名をドイツに派遣し、コレラ・赤痢等の伝染病の研究や上下水道その他の衛生施設の調査をさせる計画を立て、当時金沢医学校長兼病院長の中浜に内意を達していた。

(*中浜(ジョン)万次郎の長男として1857年生。1881年東大医学部卒)

だが、頭角を現した柴三郎が省内にいるのになぜ部外者かとの議が生じ、結局、山形有朋内務卿の決裁で2名派遣されることになる。中浜との因縁は後に留学先でも起きるがそれは後述する。かくて念願の海外留学を果たした柴三郎は、先に帰朝した緒方の話から躊躇なくコッホへの師事を決心した。

緒方の紹介状を携えた柴三郎にコッホが抱いた印象は、「よくドイツ語を話すのに驚いたに過ぎなかった」。熊本医学校から東大を通じて外国語を熱心に学びドイツ語が堪能な柴三郎には、早々に「チフス菌及びコレラ菌の含酸或いは含アルカリ培養基における関係」なるテーマが与えられた。

所期の目的を達し培養や消毒について新知見を加えたのみならず、自身も細菌学に関する基礎的知識を確立した柴三郎は、次に「コレラ菌の①乾燥及び温熱に対する抵抗力、②人糞中の生活、③乳中における関係」のテーマを完成、「人工培養基上における病原及び非病原菌に対するコレラ菌の関係」の研究公表を経てコレラ菌の性状を明瞭なものにした。

コレラ菌の仕事を終えて破傷風の研究に入る頃、インドネシアで脚気の研究をしていたオランダのベーケルハーリングが脚気の病原菌の発見を報告した。コッホの高弟リョフレルからこの報告の正否を問われた柴三郎は言下にその研究の不備を指摘し、「発表は到底信ずるべからざるもの」と答えた。

残念ながら紙幅が尽きました。ドイツでの脚気の続きや破傷風菌の発見、帰国後の伝染病研究所の設立や香港でのペスト菌発見など五万とある「面白い」話は、数回に分けてまとめます。

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