北里柴三郎の「面白い」人柄と業績②

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破傷風菌の純培養から、帰朝、伝染病研究所の設立まで

脚気菌は普通の葡萄状球菌に過ぎないとする柴三郎の自信に満ちた返答に、リョフレルはその公表を勧めた。日本で上司だった緒方も脚気菌説を唱えたことから柴三郎は躊躇した。が、「学問に私情を挟むべからず」とのリョフレルの言に従い、研究結果を細菌学中央雑誌に発表した。

コッホは柴三郎の試験結果をベーケルハーリングに送った。果たしてその1年後、コッホは柴三郎に紹介すべき人があるとして一人の外国人を引き合わせる。これが何とベーケルハーリングその人だった。彼もまた真摯な学徒で、爾後二人はあたかも旧知のごとく胸襟を開いて親しく交わった。

明治20(1887)年初夏、陸軍省警務局長と内務省衛生局を兼務していた石黒忠悳が軍医の森林太郎を伴い、ウィーンでの万国衛生会議出席途上にベルリンの柴三郎を訪れた。石黒は柴三郎に、3年目の残り1年をミュンヘンの中浜東一郎と入れ替わって衛生学を学べ、「これは官命である」と告げた。*森鴎外(1862年生)

高飛車な宣告が癇に触った柴三郎は言下に、「細菌学は勃興中の最新学問で門外漢の窮知すべからざるもの」、1年や2年で学び得ず「中浜も中途半端で困るに違いない」と答えた。石黒は「上司の命令に背く積りか」と色を成すが、森が柴三郎を別室に呼び忠告したので、その場は考慮を約して済んだ。

1888年ベルリンの日本人留学生たち(Wikipedia)。北里は前から2列目の右から2人目、森は同列左端。1人おいて中浜

森は石黒に細菌学の実情を説いて納得させた後、柴三郎を訪ねてその旨を話し、自らも石黒に懇請せよと助言した。柴三郎から詳細を聞き、その後コッホからもその学問上の話や柴三郎の研究結果と努力ぶりを聞き及んだ石黒は、大いに了解して帰国した。これが中浜との二度目の因縁。

森とのエピソードはこれに限らない。明治22年に柴三郎が「中外医事新報」に寄せた「緒方氏の脚気バチルレン説を読む」という批評を読んだ森から、「生(*柴三郎)は識を重んぜんとする余り、果ては情を忘れたり」とする旨の手紙が届いた。(読点は引用者)

それを承知の上で自説を披歴した経緯のある柴三郎は、「情に二様あり、一つを公情となし、一つを私情とす」と、西南戦争で「賊軍中に父子兄弟師友のあった」官軍の例を引き、「忍ばざる所を忍び、公情を以て私情を制し」たその心情を吐露している。まさに君子の交わりというべきか。

明治20年(1887年)の後藤新平との邂逅も見逃せない。内務技師として欧州出張した後藤はコッホに面会、「細菌学の概略習得のため暫時厄介になりたい」と申し出た。「柴三郎が承諾すれば」とするコッホに、後藤は「左様に考えてお願いした。実は役所に帰れば私が先輩だが北里は今や立派な学者、私の理想的な先生だ」と率直に述べた。

釈然たる後藤の態度はコッホを歓喜させた。3か月間柴三郎の研究室に留まった後藤は「勉学の傍らコッホを始め著名な学者と交わり、社会衛生の研究とこれに関する資料の蒐集」をした。日清戦争後の大検疫成功を遡ること8年前の、共に時代を画した二人の何とも胸が熱くなるエピソードではないか。

破傷風菌に関する北里の論文原稿(明治22年)。コッホの筆らしき書き込みも=Wikipedia

破傷風菌の純培養とその血清療法の確立は、すでにコッホ門下四天王の一人となっていた柴三郎の名を一躍世界に知らしめると共に、斯学における日本の存在自体を世界に明らかにした出来事の一つだった。なぜなら、その毒素の研究を緒として免疫学が生まれ、血清療法の基礎が確立されたからだ。

破傷風が感染性疾患であることは1884年にイタリア人研究者によって証明されていたし、翌年に別の研究者が土壌表層に存在する菌を南京鼠などに接種して破傷風を発症させていた。が、菌を特定するための純培養ができずにいた。そんな明治21年、柴三郎は菌の純培養に着手した。

何度か試みるもそれらしい太鼓撥状の菌が他の菌と混在し特定できない。そこで柴三郎はゼラチンを使った穿刺培養を試みた。すると撥状の菌だけが下深部に、他の菌は表層部にのみ発育した。そこで他の菌を熱で死滅させ、下深部の菌だけを培養して動物に接種したところ見事に「感じた」。

こうして明治23年(1890年)、柴三郎は空気を嫌う嫌気性細菌である破傷風菌の特定と培養についに成功した。続けて同病の血清療法研究に着手し、北里式濾過機や北里式鼠固定器を発明して免疫血清療法の基礎を確立した。そのヒントは何とコカインの中毒性だった。

コカインをごく少量から用い、漸次増量してゆくとやがて慣れて中毒しなくなる。そこに着目し破傷風の毒素を数万倍に希釈して動物に接種、徐々に増量して致死量を定め、その上でごく薄い毒素量から漸次増量していくうちに、致死量やそれ以上を接種しても「感じない」ものが現れたのだ。

柴三郎は同様の方法やそれを基礎とした数多の方法を用いて他の病原菌の純培養に成功したほか、コレラ、腸チフス、丹毒、脾脱疽などの免疫療法の実験を行って、細菌学に多くの新知見をもたらしその進歩に多大な貢献をした。が、明治24年(1891年)末の留学期限は確実に迫っていた。

それはコッホによる結核の新薬ツベルクリン開発の最中で柴三郎も協力していた。東京医学校長時代から内務省衛生局長期を通して柴三郎を支援し、この頃大日本私立衛生会副会頭でもあった長与専斎は陛下から恩賜の学資金を賜るべく斡旋して金1千円を得、柴三郎の1年間の延長が成った。*福沢諭吉の後の「適塾」塾頭(1838年生)

ツベルクリンの「妙法を伝習」すべく世界中からコッホを詣でた数千人の中には、欧州留学中の東大教授宇野朗らもいた。コッホは彼らに「余の許には北里がおることを日本政府は忘れておるか」と皮肉った。コッホが柴三郎にこれを告げると「文部省に信用がないからでしょう」と答えたのみという。

留学7年、明治24年末の帰朝に当たり、プロシア政府は柴三郎の功績に対し「プロフェッソル」の称号授与を決めた。帰朝途上にその報が届いたが、それは外国人として空前のことだった。帰朝後の8月には東京帝国大学評議会の推薦を受けて医学博士号が授けられた。

帰国するや柴三郎は休む間もなく、伝染病研究機関の設立を学界や社会に説いて回った。当時の我が国の「衛生状態は急性慢性の伝染病が猖獗するに任せて対策が講じられない」状況にあった。中央衛生会がその声を上げたものの内務省や文部省や帝国議会の動きは鈍かった。

この時、「優れた学者を擁してこれを無為に置くは国恥」として芝公園内の土地を提供したのは、若い頃に緒方洪庵の適塾に学び医学に通じていた福沢諭吉だった。諭吉は「学者の推輓は余が道楽の一つ」と即決した。後に柴三郎が慶應義塾の医学部創設に尽力した縁はここにもあった。

明治25年(1892年)に建てられた手狭な研究所は、翌年には予算が通って愛宕町の内務省払い下げ地に拡張移転されることとなる。が、ここに地元の反対運動が出来、「研究所は学理上決して伝染しない憂いなしというべからず」、「人の感情を損ない土地の繁栄を害する」など叫ばれて社会問題となった。

「伝染病研究所」をイメージした近代医科学記念館(Wikipedia)

いつの時代も変わらぬ地元エゴというべきか。結局、東京府知事は許可を出し、明治27年(1894年)2月に新研究所か完工した。内務技師のまま研究所を主宰指導した柴三郎は、多くの病室をジフテリア等の患者に当て、結核患者は諭吉に諮って広尾に設けた養生園に収容、治療やツベルクリンの臨床実験を行った。

次回はジフテリア血清療法の確立や白眉というべき香港でのペスト菌発見などをまとめます。