秀吉の中国戦線からの帰還が早かったのは謎でない

2020年03月19日 11:30

NHKで『本能寺の変サミット2020』とかいう番組をやっていた。有名歴史学者と芸人が集まって本能寺の変について議論している。

NHKサイトより

しかし、現場の政治を知らない人ばかりだ。なぜ、秀吉はいち早く信長の死を知ってオウム返しができたか不思議だとか議論している。そんなもの分かりきった話だ。

豊臣秀吉(高台寺所蔵、Wikipedia)

信長は秀吉の応援に安土を発って京都にやってきた。そうならば、秀吉は信長サイドから来る連絡を受け身で待っているだけであるのか?そんなはずはない。信長がどういう陣容でいつどういうように動いているか、機嫌はいいのか、誰と会ったのかなど詳細な情報が秀吉としては欲しい。

親会社の社長が出張してやってくるとき、子会社の社長は親会社の社長について少しでも早く多くの情報が欲しいところだ。それで毛利との対峙や交渉のやり方も変わってくる。 家臣とか支援者などを信長の周囲に何人も派遣して刻々と情報を送らせていたはずだ。本能寺の変が起きたら彼らが急ぎ秀吉に知らせるのは当然ではないか。なんでそんなことわからずに謎にしてしまうとすればおかしい。

歴史の定説100の嘘と誤解:世界と日本の常識に挑む』(扶桑社新書)でも100のテーマの一つとして本能寺の変を扱っている。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作、Wikipedia)

番組では、四国攻めをめぐる信長と光秀の意見の対立を第一の原因にしたがっていた。これは動機のひとつであることは確かだ。ただ、主たる動機としては弱すぎる。家老の斎藤利三にとっては妹を嫁がせているのだから動機になり得るが、家老の都合で明智軍団が冒険をするわけにはいかない。どちらかといえば、小さな動機だ。

やはり、事件の3日前に突然に、徳川家康の堺観光に随行していた嫡男の信忠を京都に呼び出している。これは京都でなにか重要な仕事があるから以外にありえない。武田信玄を滅ぼし、毛利の運命も風前の灯火だったわけで、信長の天下統一は実質的に完成する手はずが整っていた。

ならば、かねてより課題だった天下の体制を整えるときが来たのである。私は信長の体制観は以外に保守的であると思っている。またすでに人生50年の時代に49歳になっていた信長は大御所として継承の準備に入るべき時期だった。

私は信忠を征夷大将軍にでもして、自分は足利義満のように、太政大臣とか准后とかいう地位に一時的に就くのが足利義満のモデルを継承するという意味でも収まりがよい。そして、正親町天皇は譲位し、新天皇とともに安土城に行幸するというようなことがめざされたのではないか。

ところが、突然の思いつきだったので、信長も信忠もわずかの供回りしか連れていなかった。慎重な信長にあっては考えにくい軽率な行動であった。

光秀はこの信じられない僥倖を前にして、勝負を賭けたということだ。それが突然の思いつきだった証拠は、足利義昭への連絡が遅れたように、誰にどう連絡して誘うかもビジョンがまったく感じられないことでもわかる。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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