北里柴三郎の「面白い」人柄と業績③

ジフテリア血清療法の確立と香港でのペスト菌発見

北里柴三郎(Wikipedia)

ジフテリアはジフテリア菌が小児の上気道に引き起こす感染症で、現在も毎年世界で数千人が命を落としている。近時の日本では診察経験のある医師すら稀なほどだが、往時は特段の治療法がなく薬剤湿布などの対症療法をする間に急激に進行し、気管切開で対処していた。*国立感染症研究所サイト

柴三郎は明治27(1894)年に新装なった研究所に動物舎を建て、綿羊三頭を使い免疫研究を始めた。一頭で成功し患者に応用したところ「その霊妙な作用が学俗一世を驚嘆せしめた」。この血清療法により患者の90%以上が治癒、且つまた「予防にも奏功顕著なること」が証明された。

政府は「痘苗が民間営利業者の粗製乱造」に遭ったことを懸念、これを「官業たらしめんと」柴三郎に諮った。研究経費を政府にのみ頼ることに反対する知友も多かったが、「国家民人を益する故を以て国家自らこれを営むの意ある以上、快くこれを献ずるは本懐」と柴三郎は耳を傾けない。 *種痘用に弱毒化したウイルス

明治29(1896)年、完成した官営の血清薬院にジフテリア血清製造を移管、部下の高木友枝(台湾衛生学の父)を院長に推薦した。明治36(1903)年に高木が、台湾民政長官となっていた後藤新平の引きで総督府技師に転任すると、柴三郎は院長心得を命ぜられ、破傷風血清の製造も同院に移した。

世界が注目した東洋人初の植民地台湾の経営に、日本が如何に多くの秀英を送り込んでいたかを髣髴する逸話だ。苦心して開発したシフテリアと破傷風の血清事業をも、あっさり官に移管してしまう柴三郎の国家を思う気持ちにも思わず胸が熱くなる。

ペスト菌の発見は破傷風菌の純培養と並ぶ柴三郎の快挙だ。「読本」から明治27年に香港でのことを述べた「ペスト病の原因取り調べに就いて」と明治32(1899)年に神戸でのことを述べた「ペストに就いて」の二つの演説から以下要約する。

ペスト菌(電子顕微鏡2万倍の画像:Wikipedia)

明治27(1894)年5月、香港にペストが出るや柴三郎は青山胤通らと共に官命を受け6月12日に現地入りした。そこは日に60~70名もの患者が発生し「支那の人足等が道路でペストのために行き倒れする惨状」だ。幸い快癒したものの青山と石神が罹患する憂き目にも遭った。

入院するような支那人は「ヨーロッパ風やキリスト教に帰依」しており、「指先から血液を採るのも唯の支那人を扱うより説諭し易かった」が、「解剖はなかなか困難」で、支那人の小使や看護人に知られぬよう閉め切って蒸し暑く水道もない物置に棺桶を持ち込み作業した。

柴三郎によれば、「不明の伝染病」があれば「これまで分かって居る伝染病の症状及びこれまで調べて居る病体解剖の症状が似て居るかということを考えねばならぬ」ところ、「ペストは病体解剖上、脾脱疽/small>*に一番似て居」た。 *炭疽菌が起こす人獣共通伝染病

ペスト菌を「穿鑿する方針」は、似た脾脱疽と馬鼻疽の「黴菌の穿鑿」。前者は患者の血液中に、後者は「腫れている腺腫の中」にある。果たして、「血液中に一種の黴菌の居ることをその日にすぐ認めた」。当時知られた「血液の中に黴菌のいる伝染病」は脾脱疽と復帰熱だけだった。

この黴菌は敗血症を起こす肺炎菌と鳥コレラを起こす菌とに似ていた。鳥コレラ菌かを見分けるべく培養して鶏に植えたが少しも「感じない」。次に敗血症肺炎菌との見分けだが、この菌は培養基での発育が悪く血性と寒天でのみ僅かに発育した。それを動物に植えても「感じ」なかった。

他方、この菌はどの培養基でも発育が良く、植えた動物は「十分にこの黴菌に感ずる」。これによりこの菌が肺炎菌でも鳥コレラ菌でもないことが判った。次には「この黴菌がいつもペスト患者の血液の中、内臓の中にあるかどうかを調べてみる」必要がある。

「都合五十名程患者を調べ」たところ、その菌を「五名には遂に見出すことが出来」ず、うち二名は「後でペストでない」と判ったが「三名の患者」からは見付けられなかった。だが「五十名中四十五名見出したといえばこれはもう間違いない」ことだ。

柴三郎はこの発見を英国「ランセット誌」に発表した。同誌には今回の新型コロナウイルス騒動の早い時期の研究も載せられた。改めて同誌の歴史と権威を認識させられる。

中世ヨーロッパの黒死病患者を描いた絵画(Wikipedia)

演説は続く。ペストは「西暦14世紀の時分ヨーロッパ・アジア地方に流行」し、「何千万という人が死ん」だが、「その後に至ってまるで世界から跡を絶ったように無くなって」「ヨーロッパの学者は世界からなくなったと思って居った」。が、それは眼識のない考えで「支那の病気は何も分かって」いない。

支那の医者に聞けば「疫病というのはペストのこと」で、「南部雲南地方に毎年あった様子で昔から絶えたことがない」。「この春に香港の支那人が多数この病気に罹」り、「調べたら昔の書物にあるペストに能く似て」いて、「英国医者は驚いて仕舞った」と柴三郎は欧州英国の迂闊を述べる。

柴三郎はまた、「黒死という名を付けたのは大変身体が黒く」なるからと聞いたが、「今度のペストでは黒死という名義が当て嵌まって居らぬ」とし、歯茎が出血して「口の周りが黒くなるとか、舌が黒くなるとかというような症候から付けたのか知らぬが」と訝ること頻りだ。

ペストは「回復期になっても二週間や三週間は血液中に黴菌が止まって居る」とも述べ、「ここに一つ大変後来これを研究するに面白い事がある」として、話は「免疫」に及ぶ。すなわち「この黴菌はペストに罹れば患者の体内で繁殖する。然し又大変早く免疫をする」というのだ。

ペスト菌は「一週間この黴菌に抵抗が出来た病人ならば死することは稀」で、「回復期の黴菌は病人に害はない」が、菌を「純培養をして動物に植えると直ぐに感ずる」。よって「患者を早く免疫させる」ことが出来れば、「黴菌学上の治療法」がペストでも可能、という望みを柴三郎は述べる。

感染経路について柴三郎は三つを挙げ、「第一に呼吸器から伝染する。その証拠に塵芥中にペストの黴菌があってそれを吸入して感ずることが多くある。香港でも随分多」かったとし、志願して患者の家を掃除に赴いた英国兵が埃にまみれて大勢罹患したことをその事例とする。

第二に「人の身体に入ってくる道は創傷」とし、裸足で歩き回る支那人の患者の多くが「悉くという訳ではないが」創傷を持っていると述べる。第三は「消食器からもこれは来るに違いない」とするが、その事例は「香港ではまだ確かに見出しませぬ」と付言している。

その上で柴三郎は、支那人の狭く光も入らない「四十年来一度も掃除せぬような住居」が「ペストの黴菌が発育を逞しく」するから、「公衆衛生上はそういうところに注意」し、患者が出たなら「隔離してその家を、交通遮断をして十分に消毒すればそう怖い病気ではない」と結ぶ。

この明治27年の演説では、「鼠がペストに感じ易」く「患者のあった家では非常に多く死ぬ」。多くは腐敗して他の菌が混ざるので「ピクピクして居る鼠を手に入れて」調べると「ペストの黴菌」がいたと述べる。が、鼠を感染経路として特定している訳ではなく、何より「蚤」のことが一切出てこない。

今日、腺ペストは罹患した鼠から蚤を介して感染した患者の体液などから、肺ペストは肺炎に罹ったペスト患者の咳やくしゃみから、それぞれ人に感染するとされる。だが、この演説を読む限り、当時はその辺りがまだ判然としていなかったようだ。

(以下は参考までに現在わかっている感染経路)

現在特定されているペスト菌の感染経路(国立感染研HPより)

次回は明治32年の演説、北里研究所設立の経緯、中浜東一郎との紙上論争などをまとめます。