近未来タウン創造における公平さと格差

岡本 裕明

今日はある意味問題提起となるかもしれませんが、皆さんでその意味するところをお考えていただき、ご意見いただければと思います。

多くの人は格差をなくせと叫びます。1%と99%の関係を改善せよ、といいます。一方で数多くの成功者は幼少時代を逆境下で育った方が多いのも事実です。小さい時「俺は(私は)絶対に負けない!」という強い気持ちをもって人の何倍も努力をして勝ち抜いたという美談はあらゆるところで見かけます。

我々はどちらを目指しているのでしょうか?

水は高いところから低いところに、気圧は高気圧から低気圧へ、といったように常に高低差が世の中には存在し、それを社会環境は受け入れてきています。例えば鮭は産卵のために海から川を遡上します。産卵地につく頃には正直、見るも無残に傷だらけになりながらも種の保存を目指す鮭もいます。仮に鮭が遡上を止めて河口で産卵したらどうなるでしょうか?種の保存は100%成し得ないことになるでしょう。

実はトヨタがNTTと提携して作り出す富士山のふもとの近未来タウンは我々にどんな社会をもたらそうとしているのか、正直、よくわからないのであります。トヨタやNTTは技術をあらゆる方面に張り巡らし、ヒトの生活をより豊かなものにするという趣旨のはずですが、私は本心でいえばそれで人心が豊かになるのだろうか、と思っています。

(「Woven City」(ウーブン・シティ)イメージ:トヨタHPから)

(「Woven City」(ウーブン・シティ)イメージ:トヨタHPから)

物的満足と精神的満足は別物であります。テクノロジーが張り巡らせられた世界とは何でしょうか?私には均一社会、つまりイーブンで誰もが同じものをシェアする社会にみえます。悪く言えば社会主義、共産主義と同じになってしまいます。本当にそれが精神面で幸せを生み出すのでしょうか?

ソ連が共産主義で失敗した理由は何か、といえば均一社会を作る過程において人々のモチベーションが欠如したことであります。差がつかない、これにより労働生産性は一気に落ち込み、社会理念に対して人々の行動が離反したというのが歴史でありました。

人間は非常に複雑な動物です。全員同じものの提供を受け続けたり、同じことをすることはできないのであります。全ての人が持つ想像力、独創性、考え、発想、才能…が社会の中で大小の歯車となりうまく回ることで機能しているのです。全員が同じ大きさの歯車になることはありませんし、それをするのは人間否定になります。

近未来タウンを作るという意味は高度なインフラを整備するという位置づけとすべきだと思います。そこから人々がより個性を発揮しやすい社会を生み出すという考えです。しかし、トヨタが考える近未来タウンの思想の組み立て方はイーブン社会にみえるのです。これでは物的満足であり、半分の意味しかないのです。ここの差別化を図れればGAFAに勝つことができるのかもしれません。

IoTが話題になった時、すべての家電を繋げられるとされました。あれから4-5年経つと思いますが、ほとんど普及していません。それは意味がないからです。汎用化できないということです。例えば冷蔵庫の中身をIoTで管理するのは人の生活の基盤に応じて意味ある人とない人があるのです。私の家の冷蔵庫はほとんど空っぽで最小限のものしかありません。(食もミニマリストかもしれません。)そんな人に冷蔵庫のIoTも何もあったものではないのです。

私は社会の変質化を常に視野に入れています。そしてデジタルなテクノロジーとアナログな人間がどう結ばれるのか、ここに着目しています。テクノロジーが生み出す有益性とは人間社会のボトムアップであります。例えば社長さんも学生さんも同じiPhoneを持っていますが、その使途は全く違い、価値もあらゆる人にとって相違があるはずです。

近未来社会を創造するというのは「誰が何のために」という部分を実は強調しなくてはいけないのかもしれません。「あそこに住む人は…」と言われる格差も時として必要です。それが高低差を生み、経済の歯車が廻るのです。トヨタとNTTの提携発表はビジネス的意味合いはありましたが近未来タウンの本質と目的論までは見えなかったような気がします。今のままでは1960年代に大量に作った団地と同じことを60年経った今、またやろうというものです。その反省は生きていないのでしょうか?

私にはこの点が最も重要なところだと思います。トヨタは何のために、誰のために近未来タウンを創造するのか、そこを聞きたかったというのが本音であります。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年3月27日の記事より転載させていただきました。