江戸時代の飢饉とマスク不足:歴史定説の嘘

2020年04月04日 14:00

江戸時代の政治家で寛政の改革を断行した松平定信という人がいる。たいへんなインテリで倫理観も高く、渋沢栄一はこの松平定信を尊敬し「楽翁公伝」という書物を書いている。楽翁とは松平定信の隠居後の号だ。

松平定信(Wikipedia:編集部)

ところが、現代では、松平定信の前の老中で定信の天敵とも言うべき田沼意次の評価が高くなり、定信の評判は散々だ。私は今の時代に渋沢栄一がもてはやされるのは馬鹿げていると思う。

渋沢栄一は、大企業が安定して発展し、普通にやっておれば儲かっていた時代に、社員を大事にし、社会貢献もみんなで足並み揃えてしましょうという時代の権化だ。グローバル時代にあって、殻を破って新しいことにチャレンジしていくことが求められている時代には場違いな人だと思う。

ところで、この松平定信が老中として当初はそこそこ成功したのは、田沼意次の時代の末期に天明の飢饉があって大量の餓死者まで出たのに対して、定信の時代には気候も改善し豊作になったことが大きいと思う。

松平定信は徳川吉宗の次男である田安宗武の三男だ(夭折した子の数え方が難しいが実質的にという意味である)。宗武は出来が良かったので、将軍にという声もあったが、長男の家重が跡を継いだので、宗武は冷遇された。田安家を創設して将軍の控えみたいな地位にあったが、定信の兄は若くして死に、その時に次兄は松山、定信は白河に養子に出されていたので、田安家は取り潰しとなった。

天明の飢饉の頃は、定信は白河藩主としての仕事をしていたが、いち早く食料の囲い込みに成功し一人の餓死者も出さなかったといって誉められている。このとき、飢餓対策は各藩の仕事だった。その結果、気の利いた殿様は囲い込んで、移出禁止にして飢餓を防ぎ名君と言われ、出遅れた藩は餓死者を大量に出した。江戸時代の地方分権システムが生んだ人災である。

今回のマスク騒動はそれと似ている。ドラッグ・ストアなどに少しは出るが、地方自治体や大企業が買い占めて、暴利は貪っていないだろうが、自分の息がかかったところに気ままにおろして、結果、その恩恵に浴さない人は手持ちのマスクが一枚もないとかいうことになっている。そして、買い占めを行って住民に配布した自治体や慈善家が称賛されているが、社会システム全体から見れば、彼らはマスク不足の張本人にほかならないのである。

米のモノカルチャーのもたらしたもの

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これは、『歴史の定説100の嘘と誤解:世界と日本の常識に挑む』 (扶桑社新書)でも取り上げたテーマなのだが、 江戸時代の飢餓のもうひとつの原因はコメのモノカルチャーである。江戸時代はコメの年貢が主たる財政収入だったので、各藩や幕府は自領でのコメの栽培をほかの作物より優先させ、その結果、コメは常に過剰生産になり米価は下げ止まりだった。

徴税法も最初は検見法といって毎年、豊作かどうかを調べていたが、面倒で不正も横行したので、定免法という定額制にして増収を図ったら、最初は良かったが、生産の伸びを税収に反映できなくなり、租税負担率を下げる羽目になった。

全国で人口3000万人で3000万石だったが、これは一人が一石(250キロ)ずつ玄米を食べていた計算で一日に五合ほどを貧弱な副食物でひたすら食べていた。

また、鎖国のために、サツマイモはなんとか普及したが、トウモロコシ、ジャガイモ、インディカ米などの導入が遅れ、その結果、清国などに比べても食料生産の伸びは低調で、冷害のときには、飢饉に直結したのである。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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