自己責任論について語るときに、僕の語ること

2020年04月18日 22:00

ウェブ会議には多数参加し。ウェブ面談も毎日、結構な件数をやった。しかし、研究と執筆はできず。保育園が休園になったため、ひたすら保育士状態だった。保育園が休園となった、共働き在宅勤務夫婦の現実である。まあ、これも貴重な経験だと前向きに捉えることにする。今日も育児のモヤモヤを胸に生きている。

幼い頃からクラスで一番かっこよく。美形で神童という天が二物を与えたパターンなのに。美容室にもいけず。帽子でごまかし。もちろん、マスクをし。交際相手のマンションから出てきた若手売れっ子俳優みたいな格好で生きている。

さて。

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来週の「フリーランス」関連のテーマでメディア出演するのだけど。何時間も資料を読み込み、1時間かけてメールを書き、40分の電話会議をし。この仕事量とリターン、リスクのバランス自体が「フリーランス」の問題だと思ったりもしつつ。アベプラ、な。

その電話打ち合わせで「自己責任論」の話題となり。ずっと言っていることだけど、私は「自己責任」という言葉を安易に使うなという派で。あるいは、この言葉を使いたい人は、立ち止まって、言いたいことは他の言葉の方が適切ではないのかと考えてほしい。

よくある言葉の意味の変化そのものだけど。そもそも、自己責任という言葉は「リスク」をとって行動した者が自ら「結果責任」をとることを指す。ただ、単に「責任転嫁」のために使われている例も散見される。

それは「自身」の「意志」による「リスク」を認識した「選択」だったのか。その切り分けをせずに「自己責任」という言葉を使うのは、この言葉を使って相手を攻撃することを目的化している。

その「選択」も「消去法」で選ばざるを得ない場合だってある。さらには、現在のシステムが硬直的、排他的であるがゆえに、参入できず、必然的に周縁化する場合もある。自己責任ではなく、社会責任とも言うべきものだ。そして、その分析や認識を放棄した上で「自己責任」という言葉で片付けるのは「無責任」である。

自己責任といいつつ、社会や会社の中で、誰かが担わなくてはならない仕事というものがあり。その役割は社会にとって必要ではなかったか。失敗したり、人に迷惑をかけたり、つまり、何かつまづいた瞬間に「自己責任」と言い出す人がいる。

ここで「自己責任論」を語る際に跋扈するのが「苦しい環境で自ら選択し、成功した私(あるいは知人、著名人)」の物語である。「私はこの環境でも成功した」「この認識がなかった人はおかしい」「だから、自己責任」という論である。

これは、取り上げられる人のことを大好きな身内の飲みの席での話においては、カタルシスになるかもしれないが、社会を何も変えない。これは「理論」ではなく「持論」だ。持論が悪いわけではない。ただ、それは個別の物事にあてはまる部分を論理化したものであって、他の物事にあてはまるかはわからない。理論は幅広い物事にあてはまる部分を論理化したものであり。

というわけでよくある「自己責任」論は、そもそも「自己責任」論にすらなっていないのである。そしてこれを、批判したい対象、差別・切り捨てるための言葉として雑に使ってはいけない。

そんなときに、娘が私がよく口ずさむFLATBACKERの「ハードブロウ」を覚えて、歌ってくれた。「いい加減にしなさいよ。今に痛い目にあうわよ」。なんてタイムリーなんだろう。ありがとう。


編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2020年4月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。

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常見 陽平
千葉商科大学国際教養学部准教授

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