日本人の特性を生かした経済復活を

日本はダメだ、という声に自虐的ではないかとの反論は長年の議論の対象です。何がダメなのか、個々論点があると思いますが、基本は海外との比較であったり、国際ランキングといった目で見やすい比較論から来ていると思います。一方、それら国際比較に対して「いや、日本には独自の〇〇がある」「数字で比較できないものがある」という反論もあります。

(写真AC:編集部)

(写真AC:編集部)

私は日本が一概にダメダメと言いませんが、かつての日本と変わってきていることは紛れもない事実で、その変化に対してある人は終わっていると思い、ある人はそれでも良くやっているじゃないか、というわけです。

今、生きている方々の時代背景でみると概ね戦後という枠組みになりますが、その中でバブル崩壊までと90年代以降では社会がすっかり変わってしまっています。バブルの恩恵を受けたり、ちょっとでもテイストを感じた1970年代初頭生まれまでとそれ以降生まれの若い人ではメンタルや意識がかなり違うのではないかと思います。現在の年齢にして概ね45-47歳ぐらいが境目かと思います。

私は日本人を一言で表現しろと言われれば「お祭り集団行動型」と考えています。日本の歴史から考えて日本人は一人で何かすることは少なく、常に集落や共同体という枠組みで協調性を重視してきました。その結果、幼稚園や小学校低学年でも協調性を重視する活動が今でも重要課題となっています。

戦後はほぼゼロからの復興において朝鮮戦争の特需で弾みがつき、繊維や鉄鋼、自動車、半導体のアメリカへの爆発的輸出で稼ぎまくりました。まさにお祭り騒ぎです。その間、国内では好景気と称される時期が何度かありましたが、特に1961年から10年で実質国民生産を2倍にする池田勇人首相(当時)の所得倍増論がキーであったと思います。この結果、年平均10%成長という驚愕の結果を生み出し、「エコノミック アニマル」の異名が生まれます。この時、すべての日本の人に「一億総中流」という傘の下、成功という実感とその自負が生まれたのでしょう。その後、踊り過ぎて不動産と株式を通じたあくなきマネーへの追求がバブル期であったと私は考えています。

バブル期の表現方法は無数にありますが、「猫も杓子もルイ ヴィトンのカバン」という比喩で、フランスから「ヴィトンのカバンをもって通勤電車に乗るなんて」という皮肉が聞こえてきたのが私にはその状態をよく表していた例ではないかと感じています。

ところが90年代に入ると発想が180度転換します。「軽薄短小」で「個の時代」が本格化するのです。経済的変化が「個性の背中」を押したと思います。ただ、私が知る限り、そのきっかけを作ったのはバブル崩壊のはるか前の堤清二氏の西武百貨店であり、その先進的ライフスタイルのイメージ作りをした糸井重里氏のコピー、特に「じぶん新発見」(1980年)と「おいしい生活」(1982年)が着火点では、と考えています。

バブル崩壊で苦しい10年間を乗り越え、2000年代に突入するとドットコムバブルとなり、日本の若者はMBAブームとなります。「大学出じゃだめだ、アメリカでMBAを取ることこそが一流」という風潮が出ます。併せて飛び出してきたのが時代の風雲児、堀江貴文氏でありました。が、彼はある意味、理不尽な形で逮捕されます。その後に起きた東芝事件やオリンパス事件では検察が動かず、政権との癒着であるとか、やりやすいところしか手を付けないという批判のネタとなったのです。

個性の時代になって30年経つのにいまだに古いやり方から抜けられないのが国や大企業でしょうか。技術の急速な進歩に対して社会や組織がキャッチアップできないことを如実に表している一例がマイナンバー制度でしょうか?今回の10万円の給付もあの制度をもっと進化させ、システムとして組み込んでいれば論理的には数日で支給できたはずで他国の取り入れる制度と比べ、相当遅れをとっています。

ニッポンが長期低迷している理由の背景に権威主義、年功序列へのメンタル的配慮、出る杭はやっぱり打たれる、日本の「個性」は「孤性」(一人ぼっちで変わり者)で好かれない、前例主義がはびこり新しいことへの挑戦に批判が多すぎるから…などいろいろ言われています。

ではどうしたらよいのでしょうか?日本人が個性を持って才能を引き立たせるような社会の到来は私にはそう簡単には来ない気がするのです。「変えたい」「変わるかもしれない」と思い続けた30年でしたが部分的変化はみられるのですが、地殻変動的変革は気配すらないのです。ならば、やっぱり国民が皆で盛り上がる「お祭り」をするしかないのではないかと思っています。

スポーツ観戦やコンサートを通じて同じ思いの人々が集積し、一つのパワーを作り上げてきました。しかし、コロナでその盛り上がりは見事に萎んでいます。来年に延期されたオリンピックも今はそれどころではないというムードが漂います。しかし、国家ベースでその題材を提供するには政府の役割が大きいのです。冒頭、池田勇人氏の名前を出したのは日本のムードは時の政治家が発するステートメントに意味があるのです。とすれば今の政治と官僚の枠組みをそっくり作り変えるぐらいの大変革こそがもしかすると日本が元気になれる方法なのかもしれません。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年5月14日の記事より転載させていただきました。