公民連携型で低コストな大学を設立可能にせよ(上) --- 田中 大二郎

寄稿

コロナ禍を超えて

今後、コロナの禍を転じて福となすことができるかどうか、その試金石は、防災・防疫政策に限られず、日本の国と地域のさまざまな分野の課題解決に向けて、新たに歩み出す必要があります。コロナ禍を経た日本の大学のあり様を、学びを重視する立場から論じたいと思います。

東京大学(公式HPから)

現役大学生を子に持つ知人たちからは、空前のコロナ禍における大学の運営を疑問視する声が上がっています。オンライン授業導入に好意的な意見がある一方で、即席で導入されたオンライン授業体制で従来の教育の質が維持できたかどうかを疑問視する声もありました。

また、今後企業の新規採用を手控える動きが広がり、大学生の就職活動に影響が出ることを見越して、「希望の就職がかなわなかった大学生に、彼らの求める学びの機会を提供する必要がある」という意見や、より本質的な批判として、「大学は組織として、もっとイノベーションが必要だ」という声も上がっていました。

「学び」にフォーカスした議論を

議論のテーマを、なぜ「大学教育」としないのかには理由があります。これまで筆者は大学のあり方について立場の異なる多くの方と議論を重ねていますが、「教育」を起点としたとたん、「誰がお金を出すのか」「教育にはいくらお金をかけてもかけすぎではない」という種の論点に回収されてしまう経験を何度もしてきました。

確かに、OECD加盟諸国と比較して、日本の国家財政に占める高等教育の支出割合が低いことは問題だと考えていますし、すべての「大学教育」にコストをかけるなという主張をするつもりはありません。適材適所に相応のお金を投入することは必要でしょう。

重要なのは、資金や制度だけでなく、「学び」の主体の視点で、「学び」に軸足を置いて一貫した議論を組み立てる必要性も、またあるということなのです。

日本の大学の学費の高さ

日本の大学は、学費を、入学金+授業料とすると、今や初年度納付金は国公立大学の標準額で80万円を超え、私立大学では軒並み100万円を超えています。

学費の平均額は、いわゆる「デフレの20年間」に一度も下がることはありませんでした。この間、実は世帯の中で収入を得る人の数は、平均1.1人から1.8人に増え、ほぼ共働きになったのです。にもかかわらず、世帯平均年収は減り続けました。バブル崩壊、企業のリストラ、行財政改革等をうけて世帯の経済状況が逼迫する中、大学の学費はひたすら上がり続けたということなのです。

更なる改正が求められる大学設置基準~公民連携型で低コストな大学を設立可能にせよ

高等教育に財政出動を増やさない政府が悪いと決めつければ、話は簡単です。実現困難であれ、福祉等の他の予算を削り取って大学に回せばいいという話になり、大学制度も大学自体も変わらなくてもいいということになるでしょう。果たしてそれでいいのでしょうか。

高度経済成長の時期は、国の財政で国立大学を丸抱えで運営し、学生側はきわめて少ない学費で学ぶことができました。一方で、少子高齢化で国も地方も財政難になっていく中で、既存の大学の提供する高等教育を、国公立私立を問わず、とにかく国家財政でまかない無償化せよという議論は、国を財政破綻に導く危険をはらんでいます。

大学設置基準の硬直性も指摘する必要があるでしょう。昭和31年(1956年)から数度の改正を経ていますが、ハード面での大きな変化は加えられていません。多額のコストを投入し、新たに専用設備を建設し、「大学設置」の認可を得た組織が学位授与の資格を持つ仕組みになっています。新規参入が大変難しい世界です。

今の大学制度では、低コストで高度な学びを提供し、授業料を安くおさえるという発想が出てこないのです。本来、贅沢な専用設備を備えているから大学なのではなく、大学に相応しい高度な学びを提供できるから大学であるはずです。

格差是正のためのオプションが必要

「ただでさえ多すぎる大学の数を、まだ増やすのか?」 という疑問を持つ方もおられるかもしれません。格差是正の観点から、この問いにお答えしましょう。

昭和後期~平成の間、古い大学設置基準で高コスト型の大学が増え続け、国公立大学の授業料も上がり続けた間、安い学費で通える大学の選択肢が消滅し、格差が拡大してきたのです。教養軽視、職業能力重視の傾向も強まりました。

大学の数を増やすのが目的ではなく、格差是正のため、新たな低コスト型の大学を公民連携で設立し持続可能にする必要があると考えます。若者が、親の所得にかかわらず、低コストに学べるオプションを選択できる必要があるでしょう。

今、地方では公立小中学校がつぎつぎに廃校となり、多くの余剰公共施設が出てきています。筆者は自治体研究員として、多くの事例を見聞してきました。公共施設の大学施設への転用は理にかなっているはずです。

なぜ、余剰の公共施設を大学に転用する仕組みが築かれないのかを疑問に思っています。少子高齢化の課題を持つ地方ほど、若者が集い、大学ならではの学びを体験し、そこを拠点に地域で活躍できる、そのような大学のニーズを抱えているのではないでしょうか。

(下は8日朝掲載します)

田中 大二郎 自治体研究員
フランス近代思想史研究により博士(学術)(一橋大学)。平成28年熊本市都市政策研究所にて、防災、震災記憶の研究に従事。他の関心分野に、公民連携、若者の地域参加、まちづくり、関係人口等。現在、授業料不要のリベラルアーツ大学(校)のプログラムを構想中。