黒坂氏に異論:アメリカのデモで前進しているのは「行動する人たち」

高橋 富人

黒人殺害事件への抗議集会(6/4 Lorie Shaull/flickr)

フルーツギフトショップ代表の黒坂岳央氏が、アゴラで「米国でデモが起きている。悲しいことだ」からはじまる論考を発表した。

アメリカで起きているデモの最大の被害者は「大人しい黒人」

「デモ」に関する揺れる定義

アメリカで発生したデモを悲しむ記事か、と少々驚いて本論考を読んだ。

この記事を何度か読んだ印象は、「デモ」の定義が終始あいまいであるために、あえて誤読を促す「釣り記事」のような悪しき意図があるのでは、というものだった。

読み進めていくと、冒頭の文章では、デモという言葉を暴動と同義で用いていることに気付く。しかし中盤では、「デモ」は「平和的なデモ」を含む広い意味で用いている。その文脈の延長で、「デモ参加者」を「行動する騒がしい少数派」と仕分けしているために、いつの間にか「デモに参加しない態度こそふさわしい」という文章に仕立てられているように読める。

そもそも、このような繊細な意見を発信する際には、デモと暴動とはしっかり区別して書かれるべきで、暴動を「デモ」と書くのは書き手として問題があるだろう。

端的に言えば、この論考は「デモ」の意味が揺れ動くために、「デモ参加者は騒がしい少数派の黒人」の独りよがりであって、「デモに参加していない黒人にとってはいい迷惑だ」という主張とも読めてしまう。

そうなると、トランプをはるかに超え、「皇帝」習近平礼賛者のごとき権力翼賛の言説となるが、黒坂氏は当然そのような意図はないはずだ(と思いたい)。

どこにゆがみがあるのか

いうまでもなく、平和的なデモ行為は「不平等などのゆがみを正す意図をもった者たちが集団で意見を主張する、民主主義国家における国民の権利」である。例えばアメリカの公民権運動の際、キング牧師らの呼びかけに応じて20万人以上が集まった「ワシントン大行進」と名付けられたデモが、後の公民権法制定に力を与えたことは、アメリカに住んだこともある黒坂氏ならご存知のはずだ。

相当な違和感があるが、黒坂氏は論考の冒頭で、「デモ」を明確に「暴動」と同義で使っている。そのあたりの説明は読み手によって差がでないので不要だろう。

しかし、小タイトル「彼らの大半は大人しくしている」という文章から、「デモ」の意味は広くなる。黒坂氏は「日本のデモ」と「アメリカを含む海外のデモ」を比較して以下のように表現している。少々長いが引用する。

日本人の多くのデモは大人しいものだ。歩きながら抗議の声を上げ、警察官と衝突したり、ものを破壊することもしない。だが、この件に限らず、海外でのデモの多くは日本人にとって衝撃的だ。店を襲撃する、警察官と衝突する、物を破壊する、怒り心頭で暴れまわる。世紀末感が漂う。

米国のデモもすさまじいパワーを感じた。店は破壊され、警察署は放火された。大勢が暴徒化する映像だけを見ると、アフリカ系アメリカ人の全員が怒りをぶちまけているような印象を持ってしまいがちだ。

以上のように、「日本のデモは総じておとなしい」のに対して、「米国のデモは店は破壊され、警察署は放火され」るという、国別のデモの比較のためにデモという言葉を用いている。繰り返すが、「日本のデモはおとなしい」としている以上、この章では冒頭とは違い、「デモ」という言葉が「暴動」と同義で扱われておらず、一般的な意味での「デモ」として使用されている。その文脈において、「アメリカのデモは(中略)警察署は放火」される、という書き方をするのは、アメリカで平和裏にデモを行っている人々を辱める言説だ。

Chad Davis/Flickr

さらに、この章の後に続く、「noisy minorityとsilent majority(以下「騒がしい少数派」と「物言わぬ多数派」とする)」に関する後半の説明文は以下のように解釈できる。

黒坂氏は、「騒がしい少数派」に属する人を、「物事を大きく取り上げて騒ぐ人は少数派だ。そうした人は自分の人生はさておき、自分が問題視する事項に心血を注いで取り組む」としており、そういう人たちの意見について「建設的意見は大いに取り入れるべき」と肯定的にもとらえていることから、「暴動当事者」に対する言及とは読めない。

国語のテストのようだが、「物事を大きく取り上げて騒ぐ少数派」とは、この文章では「総体としてのデモ参加者」と考えるべきだ。

他方、「物言わぬ多数派」については、「多くの人は自分の人生に直接影響のない物事には冷静なのが普通だ。他人の言動に怒りをぶちまけることはせず、それよりも日々の自分の生活に忙しい」としている。これは、間違いなく「日々の生活に忙しいために、白人警察官に不当に殺された黒人の問題(自分の人生に直接影響のない物事)に対する抗議デモに参加していない大多数の黒人」と読むべきだ。

このように、黒坂氏の論考は、ここで「デモ」の解釈を、「暴動」ではなく「一般的な意味でのデモ」に、完全に置き換えている。

上記の説明に続けて、黒坂氏はこのような文章を書いている。

このデモの参加者もnoisy minorityといえる。アフリカ系アメリカ人の人口母数が多いので、全体のわずかな割合が暴徒化しても、ものすごく多く見えてしまう。

この文章では、「このデモ」のうちの「全体のわずかな割合が暴徒化」した際の見え方を言っているので、暴徒化した黒人は、上記引用文の中の「このデモの参加者」の一部として表現されている。そうでないならば、上記の「騒がしい少数派」や「物言わぬ多数派」の説明は意味が通らなくなり、内容的な齟齬が生じる。

まとめ

もちろん、近年日本で散発的に行われたデモを思い返すとき、「なんだかなぁ」と思わざるをえないものが多々あるのは事実だ。

加えて、今回の件で、暴動ではなく平和裏に行われているデモについてすら、「迷惑だよ」と首をすくめている黒人もいるかもしれない。思想の自由が認められた国家において、そのような考えも、その考えから生じる振る舞いもまた自由ではある。

しかし、公民権運動の結果、「虐げられた人々」が勝ち得た様々な権利を思い返すとき、私は当時の「騒がしい少数派」たる「アクションを起こしたプロテスタントたち」を、尊敬する。

また、今回の事件から発した一連のデモについて、「日々の生活に忙しいために、デモに参加していない大多数の黒人」が確定的に「好ましい態度」であるとも思わない。

黒坂氏も「黒人」か「アフリカ系アメリカ人」か、というような小手先の言葉遣いにこだわるのではなく、明瞭に「暴動により迷惑をこうむっている」大勢の黒人についての論考とするよう推敲すべきだったのではないか。それとも、本気でデモに参加している黒人に対する批判記事を書いたのだろうか?