黒人差別の解決策が「警察予算削減」でいいはずがない

2020年06月13日 06:00

今アメリカで起きている反黒人差別運動(BLM=Black Lives Matter)について、この記事は冷笑するつもりもないし真剣に応援したいと思っているし、逆に例えば日本には差別はないとか、アメリカの黒人差別はもう制度的にはなくなってるのに甘えてるのだとかそういう系統のことを言いたいわけでもありません。

しかし、この運動に関わる一部の人々が「求めるもの」が、「警察予算の削減」というのは、あまりにぶっ飛んでいて脳内が「???」ってなりました。

NYPD(ニューヨーク市警)の予算を6ビリオンドル(6千億円強)から5ビリオンドル(5千億円強)に減らすとか、そしてその決定を喝采で迎える活動家さんたちのSNSアカウントを見ていると、本当にそれでいいのか?は真剣に考えるべきだと思います。

そういう「アメリカンなザツさ」が、トランプというモンスターを余計に押し上げてきたように私には感じられるからです。

この記事では、経営コンサルタント兼思想家として「グローバル(あるいはアメリカ的)なシステム」と「社会のリアリティ」との間をどう取り持つのかを実地に考えてきた立場から、どうやったら「運動の熱量を具体的変革に変えていけるのか」など、これからの時代に日本人の私たちが提示していくべきビジョンについて考えます。

運動の目的が「警官を叩くこと」になってしまっていいのか?

BLM運動のもう一つのスローガンにすらなりつつある「警察予算の削減(Defund the police)」は、トランプ大統領が「左翼叩き」のネタとしてこれを使うようになってしまった事もあって、その響きほどには非理性的なものではない、ちゃんと考えてあるのだという反論はこの数日よく見ます。

要するに、過剰に軍隊的な装備を買おうとする警察を抑止して、「治安を守る別のやり方」を考えるのだというような感じでしょうか。決して警察なんていらないのだという話ではない、というわけですね。

しかし、この燃え盛る「Defund the police!!」という大合唱の情勢下で、「予算の適切な配分見直し」みたいなことができるのか?については、私はどうしても悲観的にならざるを得ません。

なぜなら、抗議者がわ」の多くに「治安を守ることに対する当事者意識」が欠けているというか、むしろ”彼らにそういうことを求めること自体が政治的に間違っている”という意識すらあるからです。

もちろん、実際にアメリカ社会に構造化されている差別の大きさから考えれば、多少強引なレベルの抗議でも「とにかく問題を認識させて変化を起こす」ことが必要だという議論はわかります。

しかし、じゃあその「予算の付け替え」というレベルの話になったら、「公平性と治安維持を”両方”実現するにはどうしたらいいか」をどちらがわも真剣に考える必要があります。ちょっとでも「治安維持」がわの要請を考えたりするのは「敵だ!」みたいな発想で、本当に「適切なDefund the police」ができるでしょうか?

結局、単に熱狂の結果としての警察の予算削減がされるだけで終わり、治安維持能力が低下して、それで困るのは、貧困地域に住んでいる普通の人です。92年のロサンゼルス暴動でも、結局それで困ったのは黒人地域に店を出していた韓国系店主とかでしたよね。

自分は治安のいいエリアに住んでいるインテリ階層が、政治的ナルシシズムを満足させるために、「治安維持と公平性の両立」という難しい課題から逃げ、とにかく警察を叩けばいいのだと騒ぐ結果として、その治安悪化のダメージを引き受けるのは結局貧困層…というのは、考えうる限り最低最悪の欺瞞構造だと私は感じます。

もちろん、差別を解消し公平な社会を実現していきたいという熱意は非常に大事なことです。しかしそれを、単なる「警察たたき」的なムーブメントに乗っ取られないようにしないと、結局騒ぐだけ騒いで飽きたら終わりになってしまうでしょう。

「敵側の懸念」を両側から解決するように動くべき

じゃあどうすればいいのか?

  • 公平性を求めるがわが、治安維持の必要性も”我がこと”として考える
  • 治安維持を重視するがわが、差別を解消して公平な社会とすることを”我がこと”として考える

これを”両方”からやっていくしかありません。ここから逃げる議論は単なる20世紀の遺物的なイデオロギーのお遊びでしかなく、本当の問題解決につながることは決してない。

アメリカはアメリカのやり方でやるしかない事情もあるので難しいこともありますが、少なくとも日本においては「日本のやり方」で一歩ずつ解決していくことを考えなくてはいけない時期に来ていると思います。(そしてそういう「日本発」のやり方が、いずれ欧米の混乱を収めるヒントになる未来もありえるでしょう。)

たとえば、私は結構「わるい人」風の外見をしているので、ただ歩いているだけでかなり頻繁に”職質”されます。

でも私はいきなりそこで「差別だ」と思ったりしません。まあこの系統の外見の人の犯罪率が高いのは事実なんだろうから、彼らが職質したくなる理由もわかる。

ただこれは、「こちらの尊厳を無視するような警察の横暴を許容する」ってことでは決して無いわけです。そうはさせないぞ!という態度も同時に出す必要がある。

別にヘリクダった態度を取るわけじゃなくて、ある種の「なめんなよ」感だって大事だし、警官に求められている一線を超えて上から目線だったりしたら抗議しようと思っている。

要するに、扱いの公平さ」と「治安維持という役割」をあなたがた警察官と私の双方で協力しあって実現することが大事だということを自分は了解していることを態度で示すんですね。

「あんたらはそれが商売なんだから、その役割は果たさないといけないよね。理解してますよ。でも法律的な公平さは守ってもらいますよ」という感じです。

「警察官が果たしている役割」について「敬意」を払う振る舞いをするようにしていけば、日本ならたいてい相手は態度を変えてくれます。無法者だと思って職質した時の態度とは違う丁重さになる。

この「相互信頼感」をどうやって維持するのかが大事なんですよ。

もちろんこれは、日本における日本人の男としての「特権的地位」だからできることだということは理解していますし、同じことを、たとえば私みたいに「多少外見が悪い人っぽい」というレベル以上に偏見をもたれやすい属性の、例えば非白人の外国の人ができるとも思っていないし、やるべきだとも言えません。

しかし、もしアウトサイダー的な扱いを受けている人の「地位向上」を目指すのならば、「扱いが一歩平等に近づいたなら、一歩こういう”相互的信頼”を作る努力をしてもらう」必要がある。そこの「双方向性」を無視して話を進めると、その社会を維持していた信義則が壊れるので、逆に差別主義的な暴力にコミットする人も増えることを止められなくなるでしょう。

アメリカの場合、トランプ大統領のようなモンスターを支えるムーブメントにどんどん油を注いでいくことになってしまう。

では、日本においてこういう課題を扱うためには、どういう視点からはじめればいいのか?について次回は書きます。

倉本圭造 経済思想家・経営コンサルタント
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倉本 圭造
経済思想家、経営コンサルタント

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