「他者によるキュレーション」を拒絶する文化の行方

2020年06月16日 06:01

新型コロナウイルス感染症に対する緊急事態宣言が解除された後、東京都では一ヶ月ぶりに40人以上の感染者が確認された。約7割が夜の街関連との報道もあり、今後は、場所や状況に応じて細分化された対策がより必要になってくるだろうと思われます。

新型コロナウイルス感染症の流行が、武漢及び日本国内ではじまってから、様々な報道がなされてきました。一番混迷を深めたのが、PCR検査についてですが、わたしは当初は大きく問題になっても、そのうち現場レベルの問題解決をどうするかの議論に収束していくかと予測していました。

しかし、そうはならずに、54兆円をかけて無症状を含めた全国民にPCR検査をするという議論にまで発展しました(ちなみに日本の年間医療費総額は約42兆円です)。抗体検査が比較的手軽にできるようになってからは、より混迷が深まった感があります。また、医療か経済か、といった、「二者択一」「白か黒か」の議論も、Twitterを中心に、対立の先鋭化があったように思います。

写真AC:編集部

Twitterは、議論を単純化し、対立の構図をクリアにし、「○○派」にユーザーを結集させ、議論を解決ではなく、より細分化された対立へと導いていった感があります。

また、今回の新型コロナウイルス感染症の議論において、メディア関連では、もうひとつ、以前からあったある傾向がはっきりと可視化され、その傾向は今後より進むであろうと思われました。

ある傾向、とは、取材に関する違和感と拒否です。

「取材」と「切り取り報道」への拒否感

acworks/写真AC:編集部

テレビ朝日の番組で、PCR検査に関してある医師がインタビューを受け、その医師は、PCR検査をどんどんやることに対しては慎重な姿勢であったにもかかわらず、番組の編集の中で、「もっとPCR検査をするべき」というような文脈に発言を使用されたというものでした。

番組の姿勢は、やはり結論ありきのキュレーションを行っており、不誠実なものもあることは言うまでもありません。昨今、SNSの発達で、取材された側が発信することができるようになり、このような「切り取り報道」が多いことが明らかになってきました。

一方で、「取材」に対し、取材対象側が、「取材とは、取材される側の主義主張をなるべく伝えなければならない」という素朴な信念をもつことにもまた、取材や報道を危うくする一面があるかもしれません。

取材とは、他者による言葉や映像で、取材対象を描出し、整理される問題点は他者の視点を一度通過しており、その視点や問題意識が、取材対象と完全に一致することはあまりないかもしれません(取材対象側の広告ではないのですから)。

また、「この取材や報道が誰に向けられているか」ということにかんして、取材する側とされる側が想定する対象に齟齬があることもあるでしょう。あるいは、取材される側が、「誰に向けられたものか」を考えることは少ないかもしれません。

取材される側の、取材される経験や理解の程度により、取材内容の良い悪いにかかわらず、大きな不満を抱いて終わる、というようなことは多く起こってしまっていると思います。「質の良い報道」のためには、取材する側、される側双方のリテラシーをあげることが鍵になるのではないでしょうか。

「第三者的視点」の消滅

多かれ少なかれ、「第三者により自分が語られる」「第三者による文脈の中で自分が語られる」のは、誰にとっても多少の不快感と違和感を伴うものではないでしょうか。筆者にしても、例外ではなく、かなり質の低い報道をされてしまった知人もいますし、ワイドショーの取材依頼がきても断ろうと思っています。

また、現在は、Twitterやブログなどの個人での発信がかなりできるようになってきており、第三者による取材は問題が多いので、そちらに注力したい、と思う人も増えているかもしれません。少なくとも、この時代は、個人にとって「誰かに取材される」メリットは少なくなってきていると思います。

こういう流れにあって、取材対象は極めて限定された人や、取材のメリットがある人だけになっていく可能性がありますし、ウェブ媒体や報道機関ではなく、noteで発信したり、noteの情報をより信頼する人も増えてきました。

個人による発信は、ときには集合知による問題解決に導かれたり、議論が活性化したり、専門外ではあるがリテラシーが高い人の知識や判断力を強化してくれるものであり、非常に有用だと思っています。

しかしそこには、「第三者的視点の消滅」があり、発信者と読者との間には、ひたすら「あなたとわたし」という空間が広がっていくことになります。こういった「あなたとわたし」の関係の中で、最近は、「無料の、誰もが得られる情報に価値はない」という見方をする人もでてきました。そういった人の一部が辿り着くのが、有料のオンラインサロンや、個人noteの購読なのだと思われます。

写真AC:編集部

「教祖化」するコミュニケーション

幻冬舎の箕輪厚介氏のセクハラ騒動に続き、オンラインサロンでの暴言が文春で曝露されたのは記憶に新しいところです。オンラインサロンにて、箕輪氏は、「何がセクハラだよボケ」「キチガイ」などの、普段であれば、ある程度の親しい関係でも使わないような言葉を用いて相手の女性に対する罵倒を繰り広げました。

動画の中で、箕輪氏は酔っていたようにも見えましたが、「ここはある程度自分と相手のやりとりにおいて文脈ができあがっている、許してくれる空間だ」という考えがあり、あのような発言に至ったのかもしれません。特定の読者しか訪れないオンラインサロンでは、「あなたとわたし」というコミュニケーションが、反復により強化されていきます。

その中で、サロンの主催者が絶対的な存在、つまり教祖のようになっていくこともあるでしょう。箕輪氏も、著作の中で、「教祖的」であることを肯定的にとらえていたように思います。

最近、わたしも、以前著作を読んで気になっていた別の方のnoteを購読して、その中での言論が、著作よりも、良くも悪くも先鋭的になっており、「あなたとわたしの、許される世界」であることが一因になっているようにも思えました。

そこでは、もう、第三者的視点は消滅していますし、そもそも必要とされていません。今後も、このようなコミュニケーションの流れは加速するのではないでしょうか。

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松村 むつみ
放射線診断医、医療ジャーナリスト

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