金正恩・与正の「役割分担論」

長谷川 良

北朝鮮の金正恩労働党委員長の実妹・金与正党中央委員会第1副部長がどうやら金正恩氏の後継者に内々指名されたというニュースが流れ、それを裏付ける情報が今年に入り頻繁に出てきている。

金正恩氏とマスゲームを観戦した時の金与正氏(左、朝鮮中央通信より引用)

当方は金与正氏の「後継者論」にはどうしても納得できない面がある。フェミニストから「当方氏は女性指導者の登場を願っていない。明らかに女性軽視だ」と批判を受けるかもしれないが、金与正氏の最近の言動から「やはり彼女は後継者ではない」という確信すら出てきているのだ。

韓国政府は14日、「厳しい現状を認識している」(聯合ニュース)と述べ、菅義偉官房長官は15日の記者会見で「北朝鮮の動向を注視、警戒中だ」(時事通信)と述べたという。その理由は明らかだ。金与正氏が北を非難するビラを韓国側の脱北者団体が飛ばしたことに激怒し、開城の南北共同連絡事務所を爆破するだけではなく、韓国への武力行使も辞さないことを示唆したからだ。

少し、頭を整理するために金与正氏の「後継者」情報をまとめてみる。

金与正氏後継者論は昨年10月、金正恩委員長が白頭山に登り、そこで「自分の後継者は金与正だ」と側近たちに語った、というのが始まりだ。その情報は本来、金正恩氏の後継者話を直接聞いた側近から入手しなければ分からない。それでは金正恩氏の側近に韓国に通じた人物がいるのか、それとも北側の恣意的な情報工作だろうか。

金与正氏の「後継者論」は金正恩氏の健康悪化説、死亡説と関連して現実味を帯びてきた。公の場に出てこない金正恩氏は心臓関連の疾患で手術を受けたが、その後の病状は良くない、といったものだった。金正恩氏が4月11日、平壌で開催された労働党政治局会議に出席して以来、公式の場から姿を消していたこともあって、いつものことだが、「死亡説」、「重体説」が流れたのだ。その金正恩氏が5月1日、20日ぶりに姿を現したことで、同氏が少なくとも生きていること、それも式典に参加でき、自力で歩ける体力があることを明らかにし、死亡説は消えた。

ここにきて金与正氏の後継が既にかなり進行していることを示唆する情報が北の国営メディアから流れてきた。朝鮮労働党機関紙「労働新聞」で「党中央」という言葉で登場し、「党中央」は金与正氏のことを示唆しているらしいというニュースだ。

もちろん、金与正氏ではなく、「金正恩氏」を意味したとも受け取れるが、北初の女性指導者を待望するかのような日韓メディアに後押しされて、金与正氏の後継者論は既定事実のように受け取られてきている。

それでは「当方はなぜ金与正氏の後継者説に懐疑的か」を少し説明する。もちろん、北からの独自情報があるからではない。非常に常識の線に沿った見方だ。近い将来、北の最高指導者の地位に就くといわれている金与正氏の最近の言動をみれば、「あれは最高指導者の言葉ではない。最高指導者を支える最側近の言動だ」というのが明らかになるからだ。

例えば、金与正氏は今月4日、脱北者の北朝鮮非難ビラについて言及し、ビラを配った脱北者を「人間のゴミ」、「犬の糞」といった表現で罵倒した、そして13日には南北共同連絡事務所を爆発すると脅迫の談話を発表している。それだけではない。南北融和路線を推進してきた韓国の文在寅政権に対しても「無能力な政府」といった罵声が飛び出してきた。今年3月3日、韓国大統領府が北の火力戦闘訓練を批判したこと受け、金与正氏は「身のほど知らずの馬鹿げた行為」「低能だ」と罵声を飛ばしている。

韓国平昌冬季五輪大会開会式に金永南最高人民会議常任委員長(当時)とともに参加した金与正氏のイメージが焼き付いている人にとって、後継者説が登場してきた彼女の言動に驚くというより、ショックを受けるかもしれない。韓国メディアは「天使の使者」から罵声を飛ばす冷血な指導者に変身してしまった金与正氏に困惑気味だ。

当方が金与正氏が金正恩氏の後継者とは思えない理由の一つは、金与正氏の品性のない、下品な談話にある。外交の世界では正面から相手を罵倒することは少ない。どうしても相手が癪だと思う時は、側近を通じて相手を非難する。将来、その非難の談話が問題となった時、その側近の責任として処理すればいい。

金正恩氏と金与正氏の父親、金正日総書記は日本の小泉純一郎首相に対し、日本人拉致事件は「特殊工作員の仕業だった」と説明し、責任から逃れた。独裁者は強権を発揮する一方、責任を回避するために側近を利用するものだ。

独裁者は健康問題以外で自分の地位を後継者に禅譲することはない。自分の政治的影響力が失われていくから、独裁者が健康の時は後継者の話などしない。金正恩氏はまだ36歳だ。健康問題がない限り、あと50年間ぐらいは独裁を続ける。だから、金正恩氏自身が白頭山の遠征の際に「自分の後継者は金与正だ」と述べたという話は考えられないことだ。昨年10月、白頭山まで馬で登った金正恩氏が余命いくばくもなかったとはどうしても考えられないのと同じだ。

金与正氏の罵声や下品な非難は実は金正恩氏の本音だろう。それを最側近の金与正氏の談話として公表しているわけだ。金与正氏の「後継者論」はその談話の価値を高める役割を果たす。同時に、談話の内容で責任が問われるような事態になったとしても、金正恩氏は全く関係がないと言い逃れできるわけだ、

金与正氏は兄思いの妹だ。兄が世界に向かって罵声を飛ばしたい内容を代わって自分が発し、兄の怒りを少しでも鎮めるとともに、いざとなればその責任を負う用意があるのだろう。換言すれば、金正恩氏は今後ともトランプ米大統領や文在寅大統領らと面と向かって交渉すること願っているわけだ。近い将来、会うかもしれない米大統領、韓国大統領に対し、「無能、低能」といった談話を発表するほど金正恩氏は外交オンチではないだろう。

昨年10月の後継者任命情報、今年に入って北国営メディアの「党中央」という表現は全て北側の情報工作ではないか、というのが当方の見方だ。もちろん、金正恩氏が実際、健康が悪化して職務遂行が難しいというのが事実とすれば、金与正氏の後継者説も出てくるが、そうでなれば、金与正氏の最近の談話は権力強化のために内部向けの発言であり、対外的な意味は少ないだろう。金正恩氏の後継者になることが決まっていたら、金与正氏が自国のメディアを通じて韓国最高指導者や外国を直接批判するはずはない。

すなわち、金正恩氏は最高指導者として華やかな外交舞台を飾る一方、最側近の妹与正氏は兄が言いたい本音を世界に向かって表明する役割を果たしているといえる。金正恩氏と金与正氏の役割分担論だ。

蛇足だが、金与正氏の後継者説が事実となれば、ファースト・ハズバンドとなる与正さんの夫、ウ・インハク氏はいかなる人物だろうか。同氏がエリザベス英女王の夫、エディンバラ公爵・フィリップ殿下のように、女王を支えることに生涯の生きがいと感じるような人物か、それともチャンスがあれば国のかじ取りを狙う人物かは大きなテーマだ。ちなみに、与正氏の夫は崔竜海最高人民会議常務委員長の息子(次男)という説もある。

いずれにしても、北朝鮮初の女性指導者が誕生するといった話は、今の段階では到底現実味のあるものではないということだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年6月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。