なぜ「黒人薬局」の店名ではダメ?

長谷川 良

音楽の都ウィーンの由緒ある薬局「黒人薬局」(Mohren Apotheke)の名前が人種差別の響きがあるとして改名を求められているという。「Mohr」は古ドイツ語で「肌の黒い人間」を意味する。すなわち、黒人だ。その黒人という呼称をつけた薬局は黒人を中傷し、人種差別を助長させるというのだ。

▲ウィーン市1区にあるモーレン薬局(モーレン薬局の公式サイトから)

▲ウィーン市1区にあるモーレン薬局(モーレン薬局の公式サイトから)

ウィーン市1区にある「黒人薬局」は1350年に開業された、ウィーンでも最古の薬局の1つだ。これまで何の問題もなく営業してきた「黒人薬局」に対し、「なぜ今になって」と考えていくと、「なぜ」は直ぐに答えが見つかる。米国で先月25日、ミネソタ州近郊で1人のアフリカ系米人、ジョージ・フロイト氏(46)が警察官によって窒息死させられた事件を受け、米国内で人種差別抗議が行われると共に、奴隷制の見直しなど、米国の建国史の書き直しが進められてきたが、その影響が欧州にも及んできた結果、といえるからだ。

欧州の場合、米国とは違い長い歴史を有する民族、国家が多い。だから歴史の負の面も少なくない。例えば、ドイツやオーストリアは戦後、ナチス・ドイツ政権との関連から、反ユダヤ主義問題が常に問題視されてきた経緯がある。

オーストリアではユダヤ人を中傷し、反ユダヤ主義を鼓舞した政治家、学者の名前を付けた建物、道路名などが至る所にあったが、それらの呼称は戦後、次々と削除され、改名されていった。

最近では、ウィーンの文化評議会は2012年4月19日、市内1区、議会から大学までのストリートを Dr.-Karl-Lueger-Ring(ドクター・カール・ルエガー・リンク)からUniversitatsring(大学リンク)に改名することを決めている。その理由は、ルエガー(1844年~1910年)は1897年から1910年までウィーン市長を務めた政治家だが、反ユダヤ主義者としても有名で、「ウィーンから全てのユダヤ人が出て行けば幸せだ」と発言した人物として知られてきた。反ユダヤ主義者の名前をつけた道路をそのままにしてはおくことはウィーンの名誉を傷つけるというわけだ。

ただし、今回のように、黒人への人種差別を理由に薬局の改名が要求されたケースはウィーンではこれまでなかった。今回の薬局名の改名要求は明らかに米国から吹き寄せる人種差別抗議デモの風を受けたものだ(「反ユダヤ主義者を街から追放せよ」2012年4月22日参考)。

「Mohren Apotheke」の改名を求めたオンライの署名集めが進められている。目標は2500人だが、現在1600人の署名が集まったという。店側の主人は改名要求に対しては理解を示しているという。ウィーンのメトロ新聞「ホイテ」が6月24日、写真付きで署名運動を報道した。

ここでは「黒人薬局」という名前の由来を紹介すべきだろう。中世時代、医学の世界ではアフリカやオリエントが治療薬の開発では欧州より進んでいた。治療薬の多くはアフリカやオリエントから持ち込まれていた。だから「黒人薬局」という呼称は当時、医学分野で進んだ地域からの治療薬という意味が含まれ、価値がそれだけ付加されていた。だから、欧州の薬局では「黒人の……」という名前が付いた薬局は多かった。黒人の薬屋さんと言えば、それだけ信頼できる高品質の治療薬があるという意味があったわけだ。

しかし、時代が進み、欧州のキリスト教社会でも医学が発展していった。医薬メーカーなどは当時、存在していない。欧州ではカトリック教会側が修道院で薬草を調合して、病気の信者たちに与えていた。薬局は修道院内の薬草保存場所を意味した。だから、その伝統を受けて店名を呼称する薬局が多い。

オーストリアの薬局名を見ると、「慈悲深い兄弟の薬局」、「聖母の薬局」、「神のまなざしの薬局」、「3位1体の薬局」など、キリスト教と密接な関係のある薬局名が多い。当方が以前住んでいた家の近くには、「神の摂理のための薬局」という意味深長な名前がついた薬局もあった。キリスト教社会では、「健康」も「病気」も、そして「癒し」も、神と無関係ではあり得ないわけだ(「薬局の日」2006年10月11日参考)。

まとめると、オーストリアでは反ユダヤ主義の疑いのある政治家の名や呼称の記念碑は次々と排除、削除されてきたが、米国の人種差別抗議デモの影響を受け、今度は14世紀に作られたウィーン最古の薬局の改名を求める声が生まれてきたわけだ。

「黒人薬局」の呼称の由来を知れば、「黒人の…」という店名は人種差別を意味するどころか、むしろ当時の黒人社会の製薬のレベルの高さを証明するものだ、ということが理解できる。しかし、米国発の人種差別抗議の運動はそんな歴史は一瞥もせず、人種差別反対、「黒人の命を大切に」と叫んでいることになる。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年6月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。