小善は徳をもたらす

北尾 吉孝

徳を持つことを望むなら、毎日善をしなければならない。一善をすると一悪が去る。毎日善をすれば、毎日悪は去る。昼が長くなれば夜が短くなるように善に励めば、すべての悪は消え去る――之は内村鑑三著『代表的日本人』で紹介されている日本の先哲・中江藤樹の言葉です。

徳を積む、取り分け陰徳(…陰の徳、誰見ざる聞かざるの中で世に良いと思うことに対して一生懸命に取り組むということ)を積むのは、極めて難しいように思います。松下幸之助さんも言われている通り、「技術は教えることができるし、習うこともできる。けれども、徳は教えることも習うこともでき」ません。徳を身に付けるのは修養に尽きるのであって「徳を高めるコツ」など有り得るはずもなく、自己向上への努力を惜しまず死ぬまで続けねばならないものです。

例えば一月程前、「松山英樹×石川遼 新型コロナウイルス感染拡大防止支援プロジェクト」が立ち上がりました。「ヤフオク!でチャリティオークションを開催、さらにスペシャル動画を配信!」とのことで、医療従事者に対する寄付等非常に気持ち良いニュースだと感じました。こうした取組みを彼らが何気なく出来るようになっているのは、やはりそれなりのある種の修養をしているからでしょう。

こうした運動選手は本当に大変な毎日毎日の練習の結果で今日があるわけで、その中で人物が出来てき今回のような善行が何気なしに出来るということではないかと思います。

残念ながら、自宅の前だけを掃除し隣近所へそのゴミを持って行くようなもいます。そうではなくて自分が掃除する時に隣近所も序でに綺麗にしておく、位の親切心を有する人が人間として立派だと思います。このように自分だけでなく自分を取り巻く環境の中で、ちょっとした習慣的に様々な良いアクションを取って行ければ修養が足りていると言えましょう。

あるいは此のウィズコロナの時代において、マスクも着けずに歩いている人も散見されます。自分のことだけを考えて、人のことを全く以て考えないわけです。自分がもし感染していたら人にうつさないようにする、ということも立派な一つの善行であります。「人間の真価はなんでもない小事に現われる」とは安岡正篤先生の言葉ですが、人間の品性・品格といったものは、その日その時の何気ない立ち居振る舞いに全て現れてくるのです。

ですから我が子が小さい時に両親は、(しつけ…外見を美しくすることではなく、心とその心が表れた立ち居振る舞いを美しくすること)を出来るだけ身に付けさせねばなりません。そして自分自身は、平生のあらゆる社会生活を通じて、「昨日より今日、今日より明日、人間として立派になろう」という気持ちをつくって行く。「今日は何か世のためになることをしたか?」と寝る前に自分に問うてみ、朝起きたらば「今日は之だけ世のためになることをしよう」と考えながら生きる。此の習慣の中で、人物が鍛えられて行くのです。

七仏通戒の偈(しちぶつつうかいのげ…過去七仏が共通して受持したといわれる、釈迦の戒めの偈)の内2句、「諸悪莫作(しょあくまくさ)・衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」にあるように、そういうことが、善行を施すことが非常に大事にされている仏教の考え方にも繋がるのではないかと思います。最後に本ブログの締めとして、「積善」ということにつき中江藤樹の次の指摘を紹介しておきます。

人は誰でも悪名を嫌い、名声を好む。小善が積もらなければ名はあらわれないが、小人は小善のことを考えない。だが、君子は日々自分に訪れる小善を疎かにしない。大善も出会えば行う。しかし、自分からは求めないだけである。大善は少なく小善は多い。大善は名声をもたらすが、小善は徳をもたらす。だが、世間では名を挙げるために大善を求める。すると、大善さえ小さくなる。君子は多くの小善から徳を生み出す者だ。徳にまさる善はない。徳はあらゆる大善の源である。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2020年7月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。