日常的になった「過去に例をみないこと」

2020年07月14日 14:00

acworks/写真AC

「過去に例をみない」という言葉は今では頻繁に耳にする表現です。過去に例がないのに日常茶飯事的に聞こえてくるということ自体が論理性を失っているのですが、事実それは起きています。

過去に例をみないウィルス、過去に例をみない豪雨から始まり、ゴーンの逃亡、京アニの放火事件、河井夫妻の巨額ばら撒き…などぱっと思いつくだけでも出てくると思いますし、これからも驚きの事件や事故は起こるのでしょう。

人為的なものから自然発生のものを含め、世の中、大変エキストリームになってきているように感じます。それに対してなすすべもないといってしまっては世の中終わりでどうにか対策を打たねばなりません。問題は対策の打ち方で蓋をして閉じてしまうのか、問題の根源を分析し、抜本的対策を取るのか、であります。

例えばコロナウィルス。かつてはあれだけ多くの専門家がさまざまな意見を述べていたのに最近は減った気がします。新規感染者の水準は減らないものの重症者や死亡者が大きく減っている点の論理的説明がなかなか聞こえてきません。山中教授はファクターXと称していますが、それはまだ未知数です。新規感染者は多いけれど重症者は少ない傾向は程度の差こそあれ他国でもみられ、日本だけの特殊理由ではなさそうです。根源の分析がぜひとも必要な分野です。

一方で報道に出てくる統計の表記にはやや恣意的な感じがしないわけではありません。新規感染者の推移のグラフは数が増えていることもあり、日々の感染者数をグラフに示していますが、死亡者はおおむね累計で出しています。累計表記は決して右肩下がりにならないのでグラフを見た印象操作になりやすいのです。この辺りは物事をきちんと理解するという点からはもう少し客観的見られるようにしてもらいたいものです。

頻発する豪雨。これが温暖化が原因かどうかは専門家に任せますが、豪雨で浸水したらどうなるか、あるいは豪雨が来て川が氾濫すればどういう事態になるかぐらいは最新のコンピューター解析で予想がつきそうなものです。50年、100年に一度の事態で想定外だったというのは今や、言い逃れで免罪符にならないのです。安心安全を売りにするならそういうエリアに住むことを極力避けるべく対策を打つべきではないでしょうか?私が国土利用計画の見直しと言っているのはそういうこともあります。

河井夫妻の衝撃のバラマキ。これは河井夫妻だけが悪いのか、といえばそんなバラマキのネタ資金を提供し、首相以下自民幹部があの嫁を当選させようとした党の体制にも反省点があるはずなのにあの夫婦が尋常ではなかったという結論で終らせようとしています。

たしかこの一件で河井氏から「こんな賄賂は他でも行われているから」と言い含められ受け取ったという趣旨を収賄された議員が述べていたと記憶しています。もしもそれが正しいのだとすれば菓子折りの中に封筒が入っているという昭和のドラマは令和の今でも生きているということになります。また、なぜたかが数十万円ぐらいでそんなことになるのか、問題の根本はそこにあるはずなのにメディアも論客もコメンテーターも誰も指摘しないのです。そして検察もそこは見て見ぬふりです。

日本人は我慢強いといわれます。アメリカ人は我慢強くないかもしれません。我慢できず抑えられない、だからうまくいくようにどんどん変えていくのが日常のスタイルになっています。どちらが良いのか、一概に言えるものではないことは十分理解しています。

しかし、「あれはひどかったね。」「よく乗り越えたね」で免罪符となり記憶の忘却となり、元の状態に再現しようとするのが日本の特徴です。同じ場所に同じものを維持することは太古の時代から育まれた日本人の特質だといってしまえばその通りなのですが。

私は過去に例をみない事態が生じるならば変わるチャンスだと思っているのです。それなのに乗り越えてほっとして元通りではちょっと進歩がないのではないかと思っています。北米でよく遭遇する「同じ過ちを繰り返さないための方策」について激論を交わしながらも最適解を求めていくというスタイルを日本も少しは取り入れてみたらどうなのでしょうか?「過去に例がない」と聞くたびに考えさせられるテーマであります。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年7月14日の記事より転載させていただきました。

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