都知事選より百倍面白い「富山の変」。経営者新人が官僚OB現職知事を猛追

アゴラ編集部

富山市と立山連峰(mochapin/写真AC)

10月25日投開票の富山県知事選の情勢が選挙戦本番を前にして異例の事態に陥っている。

富山の知事選は通例であれば、自民党が圧倒的に強い地方の首長選の典型的なパターン。知名度で勝る現職が、あるいは新人同士の戦いなら自民党が推す候補者が、それぞれ大河ドラマが始まった途端に早々と当確を決めるのがオチだった。

今回も、昨年の途中までは、現職の石井隆一氏(74)が、4期つとめた実績と知名度でこのまますんなり再選への流れかと思われた。ところが、地元の「名士中の名士」が「待った」をかけたことで雲行きが変わり始めた。新人の新田八朗氏(61)だ。

高岡市内で演説する新田氏(ツイッターより)

新田氏は、戦後、知事2期務めた高辻武邦氏を祖父に持ち、父は1913年創業の地元名門インフラ企業、日本海ガスの第二代社長。姉は通産官僚を経て北海道知事を4期務めた高橋はるみ氏(現参議院議員)だ。新田氏自身は大学卒業後に大手銀行に入社したが、数年後に父が病に倒れ、“家業”の日本海ガスに入社。2000年に日本海ガスの社長に就任した。

ガス業界は80年代以降、石炭や石油がつくる都市ガスから環境負荷がより少ない天然ガスに切り替える流れが押し寄せていたが、地方のガス会社にとっては莫大なインフラコストが経営上の難題だった。しかし新田氏は社長就任から4年後、転換に踏み出し、3年をかけて移行させた。 さらに、タンクローリーによる陸上輸送から、冬場の大雪が悩みだった中でパイプラインに切り替えて供給力を向上させるなど、経営改革に手腕を発揮した。

民間の実績を積み重ねてきた中で、新田氏は「選択と集中により、コストカットと大胆な投資を両立させる。民間企業の当たり前を県政に取り入れたい」と政界入りに意欲をにじませる。新田氏には県都・富山市の森雅志市長が早くから支持を表明。一部の地方議員にも支持が広がり、自民党富山県連は推薦候補を決めるため、石井氏、新田氏双方に面接を行う異例の事態に発展した。

思わぬ大物チャレンジャーの登場に、慌てたのが現職の石井陣営だ。自民党の推薦を勝ち取ったものの、県議の一部が新田支持に回った。石井氏は「幅広い意見をお持ちの方がおられるし、もちろん県民にもいろんな意見がある。謙虚に耳を傾けたい」(6月7日の記者会見)と平静を強調していたが、7月に入り、企業団体周りなど「異例のどぶ板」(北日本新聞)をスタート。空中戦対策でツイッターを開設し、有名な選挙参謀を雇ったとも言われ、「防戦体制」構築を急ぎ始めた。

集会で演説する石井氏(ツイッターより)

石井氏にとって過去4度の選挙は冒頭で書いた通り、典型的な地方の首長選の構図。保守王国の盤石の組織に支えられた石井氏は革新系候補を全く寄せ付けない「楽勝」続きだったため、経験のない保守分裂劇に焦りを深めているようだ。

そもそも石井氏には明確な失政があったとは言い難い。それどころか、富山市生まれの石井氏は、東大法学部卒業後に旧自治省に入省。財政課長や税務局長などの要職を歴任し、消防庁長官まで務め上げたあとに政治家に転身した「行政のスペシャリスト」。後援会のサイトでは4期の実績の検証を行い、「道路整備率(全国1位)」「移住者4.5倍」などと成果を誇示。分裂選挙とはいえ、自民党県連の推薦を結局勝ち取ったことから一見有利にみえる。

それでもここにきてなぜ保守王国の支持をまとめきれなかったのか。ある自民県議は「無難なのはよいが、他県と比べて特長を打ち出し切れていると言えず、物足りなさが残る」と指摘する。その経歴から、47都道府県知事のなかでももっとも地方財政に詳しいとされる石井知事だが、400億円の赤字解消による財政再建の触れ込みも、県債の残高自体は過去10年近く1兆円を超えて高止まりしている(参照:富山地域学研究所)。

得意の「やりくり」で、悪化を食い止めているともいえるが、人口減少に追い討ちするコロナ禍での税収落ち込みや高齢化に伴う社会保障コスト増大に不安を残す。多選批判もつきまとっており、富山新聞は「行政組織の硬直化や人事の停滞、政策のマンネリ化を招く」といった地元の懸案を伝えている(1月4日)。

石井氏、新田氏ともすでに県内各地を精力的に遊説し、実質選挙戦はスタートしている。ヒートアップする情勢を物語るように、先月には、選挙3か月前にもかかわらず、北日本新聞と北日本放送は合同の世論調査を行い、詳細な結果を報道までした。全体の情勢では「石井氏リード」と伝えたものの、大票田の県都・富山市では2人は拮坑。石井氏に推薦を出した自民の支持層では石井氏が上回ったが、同じく推薦を出した公明の支持層は、逆に新田氏の方が浸透していたという。

富山では1969年の知事選が保守分裂となり、当時の副知事と県の部長が激突。このときは21.3万票と19.6万票という競り合いの末に、部長に軍配が上がった。国政選挙では2005年の郵政選挙での保守分裂があったものの、知事選は「無風」が続いてきた。

しかし昨年4月、同じ北陸の福井県知事選が保守分裂となり、5期目をめざした自治省出身の現職が、新人の元総務官僚に敗北。その「余波」が及ぶのか、富山の自民党内では不気味な緊張感が走ったまま、越中の地はコロナ禍と分裂選挙という異例の熱い夏に突入した。

前述の世論調査で知事選への関心は8割を超え、35.34%にまで落ち込んだ前回の投票率はアップが見込まれる。2020年中の大型選挙としては今のところ、都知事選よりはるかに見応えのあるドラマが見られそうだ。