マスコミの品格

かつて新聞社への就職はなかなかの人気職種で「新聞社の電気が消えることはない」とされたものです。私も幼少のころからそのような印象を植え付けられました。ビジネス街の人通りが途切れた夜半でも新聞社の前で社員待ちのタクシーが並ぶ風景をみてある意味、日本を支えていると思い続けていました。

先日、広島で久々に記者会見に臨んだ安倍首相に対して飛行機の時間の都合上、質問数が4つと限定されている中で司会者が終わりを宣言した後も朝日新聞の記者が大声で質問をします。切り上げる首相に恨み節のような叫びをあげ、更には首相報道官の職員が腕をつかんだというクレームの報道もされています。同様の話はその少し前に官邸で毎日新聞の記者も首相の背中にかなり無理な雄たけびに近い声を浴びせていました。

東京新聞の記者、望月衣塑子さんもある意味、菅官房長官とのやりとりで一躍有名になった方でしょう。賛否両論ありますが、個人的には賛同できません。質問の内容が偏見を前提に引っ掛けて何かネタを拾い出そうとする感じがして格好良くないのです。悪く言えば二流の週刊誌的な感じでクレバーさを感じないんです。

望月衣塑子氏(FCCJ動画より)

報道関係者の世界もネットが普及し、激しい競争社会になっています。ちょっと目立つ記者会見ならば報道陣が100人以上詰めかけることもしばしばでそれぞれのペン先がどう光るかでその記事やメディアの価値も変わってきます。しかし、基本的には記者会見だけでは100人記者がいても100人が同じ情報しか取れないはずなので内容の差は出ません。あとは記者の知性と表現力そして予習能力にかかるところであります。

一時期は過激タイトルで目を引こうとした稚拙さも最近はやや沈静化した気がします。一方でメディア戦略は右派、左派をはじめ、様々な思想や考え方のどちらかに重きを置く方がよいのか、両取りをするのがよいのか判断に迷うところです。

例えば当地で長年ローカル新聞を出版していた社主は私のその質問に対して「バンクーバーのように小さな日系社会では分断を作ってはいけないから思想色を極力避けるために社説などは出さなかった」と言われたことがあります。これはこれで一つのポリシーです。

では最近のメディアの特徴はどうか、といえばあえて言うなら東野圭吾的記事が増えたように感じます。つまり、記事のトーンはある色をもって展開するのに最後の1-2行で「しかし」とそれまでのストーリーラインを打ち消し、盛り上がりを消去させる手段です。多分、これで記事の公平感を保とうとしているのでしょう。ですが読み手は混乱すると思います。

ウォーレン・バフェット氏 Twitterから

もう一つ、記事は記者の表現力一つで読み手にどんな印象でも与えられるのです。例えば日経の8月8日の記事にこんなタイトルのものがあります。「バフェット氏投資会社、純利益87%増2.7兆円 4~6月」。ネット主体で皆さん忙しいのでタイトルだけの読み流しの方もいらっしゃるでしょう。その方がこのヘッドラインをみたらどういう印象でしょうか?バフェット氏、ダメダメと言われていたのにやるじゃないか、です。

事実、日経は5月に「衰えるバフェット氏の手腕 指数に勝てず含み益も急減」とバフェット氏の否定記事を出しています。読み手はここで混乱するのです。

それからすれば8月8日の記事は嘘じゃないけれど私からすればややミスリードなんです。1-3月期の赤字が496億ドルあり、4-6月期は262億ドル利益が出ています。しかし、同社の暦年の本当の実力は50億ドル程度の利益水準です。これはアメリカの会計基準が変更となり、投資先の株価を決算に反映するようになり偽利益、偽損失が本来の数倍から10倍近く出てしまい、会社の実力評価ができないというのが正直なところでしょう。

つまり、表層の数字ではなく、この決算の本質は何処にあるか、ここがポイントだと思うのです。そしてバフェット氏の神通力がまだあるのか、そこが知りたいところではないでしょうか?

最近は聞いたことがないメディアの記事も多く配信されています。個人的に一言だけ申し上げれば記事そのものが「針小棒大」。つまりある目立つ部分だけを取り上げ過ぎておりバランスが崩れているものが目立つと思います。だから私は無名の配信会社の記事はあまり読まなくなりました。感覚が狂うんですね。

良い音楽、良い絵画、良い小説…といった具合に品の良いものに接することが大事だとすれば無限に広がるニュースメディアの中身も取捨選択すべきでしょう。さもなければ時間の無駄で、知識の汚染を招きかねないと思います。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年8月11日の記事より転載させていただきました。