安楽死の始まりと優生思想の終焉(上) --- 三戸 安弥

寄稿

7月23日、私は一件のニュース通知を目にしました。

逮捕された医師は元厚労省官僚 「高齢者は社会の負担」優生思想 京都ALS安楽死事件

逮捕された大久保愉一(左、クリニックHP)、山本直樹両容疑者(ツイッターより)

目に飛び込んで来た「優生思想」「安楽死」の文字。「これはただ事ではない」と危機感を覚えたのを覚えています。

概要を知った後に、夫にこの事件についてどう思うかと聞いたところ、「まだ判決は出ていないので何とも言い難いし容疑者を擁護する気はないけれど、『死にたい』と言っていた人に安楽死を促すのは悪い事なの?」との答えが。

私はそこで初めて「この事件は人によって感じ方も捉え方も違う」と気がつきました。

案の定、これ幸いとばかりに「安楽死は個人の権利」と声高らかに発言する政治家、それに賛同する多くの意見をSNS上で目の当たりにしました。

あまりに多くの人が「優生思想」と「安楽死」を、混同してはいけない事に気付いていない様に見受けられ、私はこれ以上ない危機感を覚えました。

社会福祉士・区議会議員という立場で福祉に携わるものとして確信と決意をもって、安楽死と優生思想の議論を分けなければいけない理由を、そしてその先に有る希望をお伝えしたいと思います。

「安楽死」とは何か

そもそも安楽死とは、老いや障害などを起因とした様々な理由から医療の手を借りて自死を選択する事です。

安楽死には4つの分類があります。

①積極的安楽死:医師が自らの手で薬剤の注射などを行い患者を死に至らしめること

②消極的安楽死:患者の命を終わらせる目的で「何も(延命治療を)しない」こと

③間接的安楽死:緩和ケアなど、苦痛の除去・緩和により結果的に死期が早まること

④純粋安楽死:不治で末期の患者に対して、生命を短縮させることなく苦痛の除去・緩和を行うこと

日本では積極的安楽死は刑法上の殺人罪もしくは自殺幇助(ほうじょ)罪が適用されます。

一方で、医学的手続きをきちんと踏んだ消極的安楽死と間接的安楽死、そして純粋安楽死については適用されません。

今回の事件を受けて「実は日本でも実質的に安楽死が行われている」という意見が多く寄せられましたが、それは消極的安楽死と間接的安楽死についてのものです。

また「尊厳死の合法化を」という意見も多く出されました。誤解している人が多いのですが、尊厳死と安楽死は違う言葉です。

尊厳死:患者が自らの意思で、延命処置を行うだけの医療をあえて受けずに死を迎えること

安楽死は家族や他人の意思により決定される場合も有りますので、尊厳死とは異なる場合があります。

今回のALS患者に対する安楽死は医師が薬物を投入したことによる積極的安楽死であり、そして尊厳死に”見える”ものでした。この事件を踏まえた議論もそうですが、今の日本における安楽死の議論とは「いかに合法的に積極的安楽死と尊厳死を行うか」という観点で進められています。

一方で、国際的には積極的安楽死と尊厳死を「個人の権利」として肯定的に捉える考えが広まり始めています。

安楽死先進国と呼ばれるオランダでは、事前に指示を書いている認知症の方は医師の判断で積極的安楽死をさせても良いと認められています。驚くべきことに、2017年にはそもそも病気を患っていない75歳以上の人なら誰でも希望すれば積極的安楽死が認められ、翌2018年には知的・発達障害者にも対象が広がっています。

なぜこの様な国では日本では違法である積極的安楽死と尊厳死が合法的に認められているのか。安楽死先進国と呼ばれる国々と日本においては人権に対する考え方、宗教的背景、死生観等様々な違いがありますが、大きな違いが2つ有ります。

1つ目が医療体制です。

オランダでは国に対し”かかりつけ医”を登録するという制度があります。つまり患者と医師との関係が一生涯続いており、深い信頼関係に基づいた患者の意思への理解が存在しているという事が解ります。安楽死には患者の意思を尊重する医療体制が必須だからです。

2つ目が同調圧力です。

安楽死先進国では他者の価値観の違いを受け入れる国民性が強く、他人の生死に干渉しないという考えが浸透しております。そのため異なる価値観を持つ他者に対しての同調圧力が発生しません。この国民性においても日本とは明らかな違いが見受けられます。

この様に合法的な安楽死とは「他者の意思・価値観の尊重」が前提となっています。そうやって初めて安楽死が他者の命を奪う殺人ではなく「他者の命の肯定」となるのです。

「優生思想」とは何か

一方で優生思想とは、生まれながらにして平等であるはずの人間に対し生産性という言葉で優劣をつけ他者を否定し、命の選別を行うことで社会への負担を減らすという偏った考え方です。「他者への偏見」がもたらす「他者の命の否定」であり、合法的な安楽死とは全く矛盾するものです。

優生思想は19世紀の終わりから私たちの生きる21世紀まで形を変えながら存在し続けており、その恐ろしさがこれ以上ない形で現れたのが、ナチスのT4作戦、そして津久井やまゆり事件です。

津久井やまゆり事件を起こした植松死刑囚は「重度の障がい者は安楽死させるべきだ」と発言して凶行に及びました。植松死刑囚は事件が起こる以前に「障害者施設で働く事は天職である」とまで発言をしていたのにも関わらず、優生思想を振りかざし45人もの入所者を殺傷したのです。

植松死刑囚は「『お金と時間』こそが幸せだ、と考えている。重度・重複障害者を育てることは莫大なお金・時間を失うことにつながる」と主張しました。人の価値を生産性で測る思想に染まっていたのです。

これはナチスのT4作戦と呼ばれる惨禍を招いたヒトラーと全く同じ考えです。ヒトラーは障がい者は生産性が無く、安楽死させることが慈悲であるという考えに基づいて安楽死政策であるT4作戦を進めました。生産性という物差しは障害の有無からやがて人種へと変化し、ユダヤ人の大虐殺へと繋がりました。

ナチスのT4作戦で移送される障害者(Wikipedia)

年齢や障害で人の幸不幸を測る優生思想をわずかでも社会が容認してしまうと必ずエスカレートし、そのうちに性別、人種、才能、容姿、思考などで人々を分断するのです。

日本においても戦後50年近くに渡り障がいへの無知・不安に基づいた旧優生保護法が実施され続けていましたが、これはまさに障がい者に対する優生思想そのものでした。

優生思想の恐怖を私たちは歴史から学び、認め、同じことを繰り返してはならないと自覚する必要があります。

しかし今日もなお、優生思想は猛威を振るっています。コロナ禍で人々の間に余裕がなくなり医療体制の崩壊が危ぶまれた中で「なるべく若い患者に呼吸器を」という命の線引きが世界各国で受け入れられてしまいました。

何より恐ろしかったのはこの様な状況下であっても「高齢者を差別するな」という声が聞こえてこなかった事です。年齢で人々を区別する事は紛れもない差別であり、優生思想に基づくものです。

優生思想は一部の人間が隠し持つ危険思想ではなく、今もなお人々の心の闇に潜み続けているのです。

(下)に続きます。

三戸 安弥(さんのへ あや)
江東区議会議員(江東・自由を守る会)、社会福祉士