安楽死の始まりと優生思想の終焉(下) --- 三戸 安弥

2020年08月22日 06:00

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両者の議論は別物だが、互いに影響し合うという危険性

今日のコロナ禍の様に人々が心理的に余裕がなくなり社会的資源が不足する緊急事態下において、普段は身を潜めていた優生思想が社会的コンセンサスの様に形作られていくことは珍しくありません。

photoB/写真AC

平常時には「差別をしてはいけない」という歯止めが掛かりますが、「非常時だから仕方がない」という言い訳を理由に差別が始まります。そして「多数の考え」という根拠で社会的に容認されてしまえば、それは誰にも止められず加速し続けます。そして恐ろしい事に危機が過ぎてもその考えが定着してしまうのです。

そんなある種の優生思想が横行している今この状況においては、安楽死の是非について語るのは非常に危険であると言わざるを得ません。

なぜなら「安楽死」と「優生思想」は先述した様に全くの別物なのに、相互的に強く影響し合うからです。

特に日本においては個の主張を重んじる事よりも争いを避けようとする同調圧力が強く強く働きます。

日本と外国でのそれぞれ教育を受けてきた私はこの違いを身を以て体感してきました。

「周りがそう思っているのだから、自分自身もこの考え方で間違いないだろう」という安心材料を日本人は求めている様に感じています。もしも安楽死が合法化された日本社会で人々が安楽死を選ぶか否か考えるとき、「他人の意思が全く干渉しない、100%自分自身の意思」に基づいて考えなければなりません。

しかし日本人が自分の命を考えるときでも判断材料の一つとされてしまう恐れがあるのが社会的なコンセンサス、つまり優生思想です。

「誰かに助けを求めてでも最期まで人生を全うしたい。」

「他人が自身の死を望んだとしても最期まで人生を全うしたい。」

安楽死が合法化された社会においても、生きたいという意思は不可侵なものでなければいけません。

しかし優生思想が蔓延した社会では「高齢だ」「障がいがあって働けない」「誰かの迷惑になってしまう」といった他者がもたらす価値観や周囲の目を気にして、安楽死を選択してしまうという状況が産まれてしまいます。

そんなことは絶対に避けなければいけません。だから優生思想による安楽死判断への影響力を否定できない限りは両者を同時に議論したり、一緒くたにすることは非常に危険であると考えます。

そしてこれが今回のALS患者の死をきっかけに安楽死を議論してはいけない理由です。

今回の事件はあくまで安楽死に見えるだけで、全く違うものだと考えるからです。

cheetah/写真AC

まとめ:社会福祉士として考える「安楽死の議論のスタート地点に立つ」為の目指すべき社会のあり方

「自然界は弱肉強食、だから優秀な生き物が繁栄することは自然の摂理だ。」

真っ向から優生思想に立ち向かうと、この手の主張が幾度となくぶつけられます。

私にとって優生思想に立ち向かうことは叡智を持つ人類としての最後の抵抗です。ソーシャルワーカーとして誰もが暮らしやすい社会の実現を夢物語として諦めるつもりはありません。

しかしながら、私は人がどうしても「死にたい」という気持ちやその権利を否定することは出来ません。その点は安楽死を肯定する人々とも共通する点と認識しております。

私自身が戦っているのは安楽死の是非ではなく、優生思想です。

そもそも人が「死にたい」と感じ始めたら、真っ先に行うのはメンタル面でのサポートであるべきだと考えます。

「自殺はいけません、安楽死は違法だから出来ません、生きてください」と言うだけではあまりにも無責任です。

全身を動かせないALS患者の絶望に寄り添い、競争社会に疲れた人々の心の苦しみを取り除き、未来への希望を共に育む。

誰にでも寄り添い、誰もが生きる為に必要とされる。それが福祉の本来の役割です。

当事者へのエンパワメントと福祉の力を強化し、体制を整える事が求められています。非常時だからと人を選別することはあってはならず、あらゆる想定に備えて社会資源を蓄えておく必要があります。

新型コロナウイルス感染症がもたらした混乱下の様に、人は得体の知れないものや恐怖と対峙した時、他責にしたり他害的になる傾向を感じる事が多々ありました。

一方で他人を思いやる「互助の精神」が発揮され、多くの人の心を動かした場面も目の当たりにしました。

私たち人間は「お互い(他者)の生きる権利を尊重し合う」事であらゆる困難を乗り切れるのです。他者を大切にすれば自身を大切にする事にも繋がります。この「相互扶助」が前提としてある社会であってこそ、初めて人としての最後の尊厳を尊重するために安楽死について考える事ができるのではないでしょうか。

逆に言えば、適切な安楽死の議論は他者に対する「尊重」と「相互理解」を生み出します。そして優生思想は他者に対する「無知」と「無関心」によって生み出されるものです。つまり、適切な安楽死の議論は優生思想を終わらせる力を持っているということです。

繰り返しとなりますが私は安楽死の議論を否定しているのではありません。

優生思想と安楽死の混同を危険視し、まずは優生思想への終止符が必要と考えています。

今回の事件をきっかけに安楽死の議論が活性化しています。

私は優生思想と混同した危険な意見には断固として戦いますが、安楽死の議論そのものの盛り上がりは人が人を尊重する事の第一歩として社会に受け入れられて欲しいと思います。

ここで適切な安楽死の議論が出来れば、優生思想の終焉に繋がるからです。

福祉は特殊な世界ではない事、個人責任論に依るものではない事を改めて認識した上で、前向きな安楽死の議論が行われる事を願っています。

その結論とそれがもたらす優生思想の終焉を見届けるのは今を生きる私たちであると信じて止みません。

三戸 安弥(さんのへ あや)
江東区議会議員(江東・自由を守る会)、社会福祉士

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