亡き李登輝氏に思う

「台湾民主化の父」とも呼ばれた大指導者、李登輝元総統が亡くなられて後ひと月が経ちました。彼に関しては11年半も前になりますが、拙著『君子を目指せ小人になるな』(致知出版社)の「プロローグ」の中で、私は下記の通り述べておきました。我々日本人が謙虚に傾聴すべき指摘であり、指導者たる者が目指すべき方向だとつくづく思います。今回の死去に際して、改めて下記記載しておきます。

李登輝元総統(Wikipedia)

『君子を目指せ 小人になるな』──これがこの本のタイトルです。

いかにも古めかしい。多くの若者は、時代錯誤も甚だしいと、中味を読む前に敬遠するかもしれません。にもかかわらず、何故こうしたタイトルにしたのか?

その理由は「君子」という言葉で象徴される人物の涵養こそが、今の日本には希求されていると確信するからです。「君子」の人物像については本論で詳述するとして、ここではまず日本と日本人の現状がどうであるかを見てみましょう。そうすることで今日の日本の問題点を浮き彫りにしたいと思うのです。

先日、台湾の元総統の李登輝が上梓した『最高指導者の条件』(PHP研究所)という本を読みました。彼は、日本の旧制中学・高等学校から京都帝国大学さらには米国のコーネル大学で学びましたが、その当時を懐古しながら、「かつての日本のエリート教育は、教養を非常に重んじ、品格を重視するものであった。歴史、哲学、芸術、科学技術など各方面を学習することで総合的な教養を育成し、ひいては国を愛し、人民を愛する心を備えさせようとした。そのために読書、なかでも古典を読むことを学生たちに求めた」と語っています。

そして当時の状況と比べて、「最近の日本では、大学ですら一般教養を軽視する風潮を露骨に見せはじめているようだ。だが、物質的な面ばかり重視するようになれば、精神的な面が疎かになる。人間として最も大事な青少年時代に、内面的な自己を涵養する機会が失われてしまうのである」「かつての日本には教養を重視する教育システムがあった。旧制高校、旧制大学では教室のなかでの勉強にとどまらず、教養を学ぶことが重んじられた。それが日本のエリート層を優れた指導者に育てる力になったと私は考えている」等々と語っています。

さらに彼の現在の日本及び日本人(とりわけエリート層)への辛辣な指摘は続きます。流石かつて「アジアの巨人」として世界中から高く評価され、台湾を繁栄に導いた指導者の言だけあり、謙虚に傾聴されるべき指摘だと思います。そこであえて、次にいくつか列挙しておくことにします。

○アメリカ、イギリスはもとより、多くの国では国家がはっきりとしたかたちで将来の指導者となるエリート層を養成している。ところが、戦後の日本はこれを怠っている。アメリカ式教育に表面的に倣い、テクニカルなレベルで一生懸命になるばかりで、本当に必要な「指導者をつくりあげる教育」をまったく実施していないとさえ思う。

○「仁」は世界でも最高に深遠な人間精神を反映しているものであり、日本が誇るべき文化であり、精神である。今日のような国際情勢のなかだからこそ、その価値の重要性を強く再認識する必要がある。

○現在の日本社会を見たとき、指導者に求められる精神修養が軽視されているのを感じる。合理的な発想からすれば、「知識」や「能力」さえあればよいかもしれない。だが人間はそれほど簡単なものではない。(中略)洞察力を持つには、人間の能力や計算ずくの利害関係を超越した発想が必要である。

○最近の日本の指導者は、部分的な細かいところにこだわる傾向が強いように見える。これを矯正するには、能力や駆け引きから隔絶した体験をすることである。たとえば道場で座禅を組む。

○指導者が能力や利害でのみ判断するかぎり、日本の政治に幅や大局観など生まれるはずがない。

○大事なのは「信念」であり、自らに対する「矜持」(確かな自信があっての誇り)なのだ。現在の日本の政治的混迷を見るたび、そしてさまざまな日本社会の停滞について耳にするたびに、私はそのことを思い出す。そうした信念や矜持をもつには精神的修養が重要で、それが最終的に、物事の本質を見抜く洞察力や大局観につながるのだ。

○かつての日本の官吏はじつに優秀で、人格的にも優れていた。(中略)ところが最近の日本の官僚に対する評価は地に落ちている。実際、日本の官僚たちの腐敗・堕落ぶりは、かなりひどいと聞く。

さて、長ながと李登輝元台湾総統の言を引用しましたが、その理由の一つは、彼が実体験として日本の戦前・戦後をよく知っていること。二つ目は、彼は一九二三年の生まれであり、すでに齢八十五才を超え、識見・見識は言うに及ばず、人生の厳粛な道理を心得体達しているということです。恐らく戦前・戦後の日本及び日本人を深く知る一般的識者の評も、残念ながらこうしたものでないかと思うのです。日本がなぜこうなったかと言えば、私はマッカーサー占領軍の日本弱体化政策、すなわち一切の歴史・伝統や精神的なもの、日本的なものを排除していこうという政策が大成功した結果であると考えています。

日本は占領軍の当初の思惑通り、戦後六十余年を経て危機的様相に陥ってしまいました。政治は短期間で次々と総理や大臣が辞任するなど混迷の様相を呈し、九十年代に入って世界の優等生であった経済ですら、バブル崩壊後、先進諸国で初めてデフレーション(対前年消費者物価上昇率が下落する)を経験し、一人当たりのGDPも一九九三年の世界第二位から二〇〇六年には世界第十八位に後退しました。今なお経済の停滞(スタグネーション)に直面しています。

また、教育の現場では、学級崩壊、学校崩壊、学力低下、いじめが問題となっていますし、さらに近年は親殺し、子殺し、児童虐待、老人虐待、自殺の増加といった新しいタイプの社会問題が顕在化してきています。

こうした問題の根本原因は何かというと、私は戦後の日本の教育にあると考えています。戦後の教育には、道徳的見識を育てる人間学という学問が欠落していました。今日の若者に、日本の高等教育で戦後軽視されてきた古典的教養を身につけさせることは、人間と人世の実践的原理・原則を学ぶ上で不可欠です。

ところが、悲しいかな最近の大学生の我が社における新卒採用面接での質問に対する答えから感じられる教養のなさにはしばしばがっかりさせられます。大学生の本分はあくまでも自己の学修と朋友との切磋琢磨にあります。にもかかわらず本分を忘れ、アルバイトとクラブやサークル活動に明け暮れている者が多いのには驚くばかりです。

本来、本分を全うすべくできる限り雑事にかかわることを自戒せねばならないはずです。若者の態度、言動、教養、品性はおのずから日本の前途を標示するものだとすれば、「後生畏(おそ)る可(べ)し。焉(いずく)んぞ来者の今に如(し)かざるを知らんや」(『論語』子罕第九)などと安心している場合ではありません。人間の原理的教養の欠陥は、必ず精神力の不振となって表れてくるのです。

そうなると、気概・気迫・自信・見識の喪失となり、やがて逃避的、迎合的、日和見的になり、大事に臨んでも自己保身に汲々(きゅうきゅう)とするような人間になるのは目に見えています。

こうした現状を踏まえると、我々は国を挙げて道徳教育を主眼とした人物の養成に取り組まねばなりません。また戦後教育にどっぷり漬かった若者たちは人間学の学習と知行合一的な修養により自己人物を練らねばなりません。そして精神・道徳・人間の内的革命を遂行し、「君子」への道に確かな一歩を踏み出していかねばならないのです。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2020年8月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。