人には「冒涜する自由」があるか:仏マクロン大統領発言を考える

人は自慢したくなる時がある。特に、自分が持っていて、他者がないと分かった場合だ。フランスのマクロン大統領はそのような思いから「フランスには冒涜する自由がある」と述べたとすれば、聡明で若い大統領としてはやはり軽率な発言といわなければならない。フランスにも「人を殺す自由」がないのと同じく、「冒涜する自由」はない。殺人も冒涜も「自由」のカテゴリーからいうべき問題ではないからだ。

レバノン訪問で記者会見をするマクロン大統領(9月1日、フランス大統領府公式サイトから)

話を5年前に戻す。2015年1月7日午前11時半、パリの左派系風刺週刊紙「シャルリー・エブド」本社に武装した2人組の覆面男が侵入し、自動小銃を乱射し、建物2階で編集会議を開いていた編集長を含む10人のジャーナリスト、2人の警察官などを殺害するというテロ事件が発生した。

「シャルリー・エブド」誌は、2011年と12年にイスラム教の預言者ムハンマドを風刺した画を掲載。13年には「ムハンマドの生涯」と題した漫画を出版した。イスラム過激派グループからは報復の脅迫メールを何度も受け取り、警察側は警備を強化していた矢先だった。

フランスのオランド大統領(当時)は事件直後、テレビを通じて国民向けに演説し、「我々の最強の武器は自由だ。自由は蛮行より強い」と述べ、国民に連帯を呼びかけた。そして3日間、テロ犠牲者への「国民追悼の日」とし、国内の国旗を半旗にすることを決めた。パリ市民はテロ事件の直後、「Je suis Charlie」(私はシャルリー・エブド)という抗議プラカードなどを掲げ、「言論の自由」の擁護に立ち上がった。

オランド元大統領は同年1月11日、世界から多くの首脳を招き、パりで反テロ行進を挙行した。同国内務省の発表によると、1944年8月のパリ解放を上回る約370万人の国民が反テロ行進に参加した。西側のテロ専門家はパリのテロ事件を「欧州の9・11事件だ」と表現していたほどだ(「フランスのテロ事件への一考」2015年1月9日参考)。

あれから5年以上が経過した。同テロ事件を巡る公判が2日始まった。「シャルリー・エブド」は今月2日付の特別号で、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を1面に再掲載し「全てはこのために」と見出しを付け、「われわれは絶対に屈服しない」と改めて決意表明した。

そして先述したように、マクロン大統領は1日、訪問先のレバノン・ベイルートの記者会見で「フランスには冒涜する自由がある。報道の自由がある」と述べたのだ。

「報道の自由がある」には異議はないが、「冒涜する自由」はあるだろうか。トルコ外務省のハミ・アクソイ報道官は書面で、「ムスリムに向けたこの侮辱と冒涜は、報道、芸術、または表現の自由を口実にすることができない。マクロン大統領がこの問題を表現の自由として弁明しているが、絶対に容認できない」と厳しく批判している。

当方はトルコ外務省報道官の見解に同意する。なぜならば、「表現の自由」は存在するが、「冒涜する自由」は存在しないからだ。「表現の自由」を保証するために他者を「冒涜する自由」などないのだ。

オランド大統領は当時、「自由はテロへの最強の武器」と述べたが、その自由がテロを誘発したという現実は無視できない。身近な例を挙げる。性犯罪が発生する度にメディアは加害者を批判するが、淫らな性情報を垂れ流してきたメディアの責任は「言論の自由」という庇護の下、追及されることはほとんどない。テロ行為は許されないが、テロを誘発する自由の行使(イスラム教徒の宗教心を冒涜する行為など)に対しては明確にノーと言わざるを得ない。他宗派の宗教心を冒涜しない自制は「言論の自由」の制限を意味しない。

それでは、テロに屈せず守るべき「言論の自由」とは何か。明確な価値観、倫理観を持たない「言論の自由」は本来、あり得ない。それでは、どのような「言論の自由」をわれわれは今後、命を張ってでも守らなければならないのか(「どのような『言論の自由』を守るか」2015年1月11日参考)。

イスラム教徒の宗教心を冒涜した結果、当時17人がテロの犠牲となった。「冒涜の自由」がテロを誘発したことになる。「冒涜する自由」はあるが、「テロの自由」はないと主張すれば、両者の違いはどこに根拠があるのかが問題となる。誰が自由を付与するかだ。この自由はいいが、あの自由はダメだ、と誰が言える権利があるのかだ。もちろん、マクロン大統領にはそのような権利はないだろう。

明確な点は、人は本来、何が良く、何が悪いかを知っていることだ。それが正常に機能しないのは、知っていてもそれを制御できないために、良くない自由を行使し、他者を傷つけることになるわけだ。すなわち、自由はあくまでその人間を取り巻く状況を言い表したものであり、その自由が良き結果を生み出すか、そうではないかはその自由を享受している人間の選択(行為)にかかっていることになる。

「全てが許される」という発想は、人間の傲慢さを表現している。人間には「許されること」と「許されないこと」があると認識することが“考える葦”である人間の尊厳の出発点ではないか。その「許されている範囲」で人は自由を行使できるというべきだろう(「本当に『全ては許される』か」2015年1月15日参考)。

「冒涜する自由」は元々あってはならない。マクロン大統領の発言は「フランスは自由な国だ」という点を自慢したいために、「許されていない範囲」の自由までその範疇に入れてしまったのだ。批判は当然だ。繰り返すが、「言論の自由」は尊重されなければならないが、同時に、言論(言葉、中傷冒涜)は人を殺すことがある。「言論の自由」は本来、人を傷つけ、殺すためにあるのではなく、人を生かし、生きる力を与えるため行使すべきものだからだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年9月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。