ナワリヌイ事件が示したロシアの顔

長谷川 良

2005年、ドイツのシュレーダー首相(当時)とロシアのプーチン大統領がロシアの天然ガスをドイツまで海底パイプラインで繋ぐ「ノルド・ストリーム」計画で合意した時、ポーランドのラドスワフ・シコルスキ国防相(当時)は、「ヒトラー・スターリン協定」(独ソ不可侵条約)の再現だと批判したことがあった。

「ノルド・ストリーム2」のルート図(ガスプロム公式サイトから)

同協定は1939年8月23日、ヒトラーとスターリン両国指導者が両国間の不可侵で合意し、同協定秘密議定書の中で「ポーランドの分割とバルト三国へのソ連の権限保証」などが明記されていた。そのためリトアニア、ラトビア、エストニア、そしてポーランドでは同協定を思い出すたびに苦い思いが湧いてくる。

1939年の「独ソ不可侵条約」と2005年の「ノルド・ストリーム」計画では時代だけではなく、対象とする分野も全く違う。共通点があるとすれば、ドイツとソ連(後継国ロシア)が関与しているというだけだ。

特に、「ノルド・ストリーム2」はロシアの天然ガス独占企業「ガスプロム」とドイツやフランスなどの欧州企業との間で締結されたものだ。軍事協定の「ヒトラー・スターリン協定」の再現といって声を挙げて批判するには少々無理がある。

しかし、バルト3国とポーランドの国々にとって66年後の独ロ間の「ノルド・ストリーム」計画は警戒せざるを得ないのだ。それは事実に基づく恐れというよりも、歴史的トラウマというべきかもしれない。個々の人間が自身と家族、一族の過去の歴史をその細胞に記憶させているように、その人間の結集体ともいうべき民族、国家もその過去を覚えているものだ。66年前のことを体験していない現在のポーランド人が独ロ間のエネルギー政策に恐れを感じるとしても不思議ではない。

それらの国にとって朗報は、「ノルド・ストローム2」計画が暗礁に乗り上げる可能性が出てきたことだ。第1パイプラインは2011年11月8日に完成し、2本目のパイプライン建設「ノルド・ストリーム2」は昨年末には完工する予定だったが、米国側が「ドイツはロシアのエネルギーへの依存を高める結果となる。欧州の安全問題にも深刻な影響が出てくる」と強く反対し、同計画に関与する欧米の民間企業に対して経済制裁を実施すると警告。そのため完成まで150キロあまりの距離を残し、同計画は現在、停止状況に陥っているのだ。

もちろん、同計画を救済するため様々な対策が講じられている。ロシア側代表、ガスプロム社はパイプラインを自力で完工すると宣言し、プロジェクトの残り約150キロ(120キロはデンマーク領海、30キロドイツ領海)を完成させるためにロシア保有のパイプ敷設船2隻を出動させたばかりだ。

脱石炭、脱原発を決定したメルケル政権にとって、安価なロシア産天然ガスの確保は国民経済に欠かせない。ロシアにとっても、ウクライナなどを経由せず直接ドイツに天然ガスを運ぶ「ノルド・ストリーム」計画は経済的であり、欧州への政治、経済的影響を維持する上でもプラスだ。

すなわち、ドイツとロシア両国にとって、「ノルド・ストリーム2」はぜひとも実現したいプロジェクトというわけだ(「ノルド・ストリーム2』完成できるか」2020年8月6日参考)。

ロシアのプーチン大統領(ロシア大統領府公式サイトから)

しかし、ロシアの著名な反体制派指導者、アレクセイ・ナワリヌイ氏が旧ソ連の軍用神経剤「ノビチョク」の毒物投与で意識不明となったことが明らかになったことから、プーチン大統領への批判は強まってきた。

英国で2018年3月4日、亡命中の元ロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)スクリパリ大佐と娘が、英国ソールズベリーで意識を失って倒れているところを発見され、調査の結果、毒性の強い神経剤が犯行に使用されたことが判明したが、プーチン氏は英国の強い要請にもかかわらず、事件の解明を拒否してきた。

ナワリヌイ氏(Wikipedia)

英国はロシアの仕業として外交官を追放するなどの制裁を実施、欧州諸国も同様の制裁に同調した。プーチン氏が今回も同じように対応すれば、ロシアへの制裁を求める声が高まるのは必至だ。具体的には、「ノルド・ストリーム2」の中止だ。

その動きは既に見られる。欧米で最も権威のある民間主催の「ミュンヘン安全保障会議」(MSC)のヴォルフガング・イッシンガ―議長はシュピーゲル誌とのインタビューの中で、「残念ながら、独ロ両国の戦略的パートナーは終わった」と強調し、ドイツを含む欧州はロシアに対して強硬な制裁を実施すべきだと指摘し、ロシアとドイツ両国が推進中の天然ガスパイプライン建設「ノルド・ストリーム2」の中止も考えられると示唆するなど、ドイツ国内でも同計画の中止を求める声が出てきている。

メルケル首相はトランプ政権から「ロシアへのエネルギー依存は欧州の安全を危うくする」という批判に対して、「安保問題と経済問題は分けて考えるべきだ」と主張されてきたが、ナワリヌイ氏暗殺未遂事件はそのような弁解が通用しないことを示しているわけだ。

ただし、欧州はスクリパリ事件と同じように、ロシアに制裁を実施するかは不明だ。スクリパリ事件の場合、暗殺未遂事件は英国の領土内で英国人となった国民に対して実行されたが、ナワリヌイ事件の場合、ロシア領土内でロシア人に対して行われた事件だからだ。ロシア側は早速、「内政に関与するな」と主張し、牽制している。

11月3日の米大統領選でバイデン前副大統領が当選すれば、「ノルド・ストリーム2」に対する制裁も解除、ないしは緩和するのではないかという声も聞かれるが、「ノルド・ストリーム2」に対する制裁は米上下両院で決定されたものであり、大統領が替わったとしても米国側の立場には大きな変化は考えられない。

欧州の大国ドイツとロシア両国が連携して動き出す時、他の欧州諸国は冷静ではいられなくなる。それは昔も今も余り変わらない。「ノルド・ストリーム2」は民間企業が参加するエネルギー問題だが、他の欧州諸国にとって「独ソ不可侵条約」のトラウマが出てくる。それはロシアが民主国家として欧州に完全に統合されるまで払しょくできないかもしれない。

残念ながら、ナワリヌイ事件はロシアの民主的成熟度がまだ十分ではないことを端的に示している。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年9月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。