旧東独民は本当に「2等国民」か?

独週刊誌シュピーゲル(9月5日号)は来月3日に東西両ドイツ統一30周年を控えて、「2等国民」(Buerger zweiter Klasse)という見出しの記事を掲載していた。旧東独国民が旧西独国民に対して「われわれは2等国民だ」という思いが30年の年月が経過した今日でも依然払しょくできない現状を報告していた。

ベルリンの壁の崩壊を喜ぶベルリン市民(1989年11月9日、Wikipedia)

6月5日から10日の間、1581人の国民(旧西独出身者779人、旧東独出身者802人)を対象にオンラインで調査した結果によると、「旧東独国民は2等国民のように扱われているか」という質問に対し、旧西独出身者は21%、旧東独出身者の国民は59%がそのように感じているという。圧倒的に旧東独出身者のドイツ人が多いわけだ。

興味深い点は、「移民系ドイツ人は2等国民のように扱われているか」という質問には、旧西独国民50%、旧東独国民は49%とほぼ同じだったことだ。すなわち、「ベトナム出身だから」ドイツで2等国民のように扱われているというよりも、「自分は旧東独出身だから」2等国民のように扱われていると感じる傾向のほうが強いわけだ。

米国では黒人米国人が白人米国人に対し「われわれは2等国民だ」と感じるケースが多い。植民地化政策、奴隷制度の歴史を持つ米国では黒人米国人が白人社会に対して感じる差別感は良く知られている。一人の黒人が白人警察官によって殺害されるシーンが放映されると、その衝撃は米全土に波及して、黒人米国人の怒りと抗議のデモが行われているのをわれわれは今、目撃している。

黒人米国人の「2等国民」という感情は旧東独国民のそれとは歴史、背景が異なるから同列扱いはできないが、「2等国民」という感情にはエスタブリシュメント階層に対する根深い恨みや憎しみが含まれ、時には、犠牲者メンタリティーも生まれてくる点では案外、似ている。「われわれは対等に公平に扱われたり評価されたりしていない」という思いだ。前者は肌の色が原因であり、後者は出自が問われているわけだ(「成長を妨げる『犠牲者メンタリティ』」2019年2月24日参考)。

ドイツでは1990年10月3日、東西両ドイツが統一された。東西間で人口は4対1、経済規模(GDP)は2018年段階で6対1程度だ。あれから30年が過ぎる。旧西独(10州)と旧東独(6州)の間には経済格差があって、旧東独社会には閉塞感が生まれ、外国人への排他主義傾向が生まれ、その結果、政治的不安定が生まれてくる。旧東独から所得が高い旧西独地域に国民が流れていき、旧東独地域は過疎化していく。ちなみに、再統一時の旧東西間の所得格差は約4倍だったといわれている。

1989年12月22日、ブランデンブルク門が開放された日のコール(中央左)と東ドイツ閣僚評議会議長ハンス・モドロウ(左端)、西ベルリン市長ヴァルター・モンパー(中央右)(Wikipedia:編集部)

コール統一政権(当時)は、40年間の社会主義経済下で停滞してきた旧東独経済を復興させるために巨額の投資を実施した。具体的には、通貨統合を実施した。その結果、旧東独国民の賃金が上がり、購買力は高まったが、その労働生産性は旧西独に比べ劣るため、旧東独の経済は競争力を失い、自立できない状況になっていった。工場は閉鎖され、失業率は高まっていったわけだ。

また、コール統一政権は旧東独経済を回復させるための財源として通称「連帯税」(Solidaritatszuschlag)と呼ばれる増税を実施した。旧西独から旧東独への経済支援だった。所得税から5.5%の連帯税が徴収され、それで旧東独のインフラ整備、道路や橋、住居が建設されていった。30年間余り、旧西独から旧東独に投資された総額は莫大な額になるといわれる。

ドイツ連邦議会は昨年11月14日、1991年から導入された「連帯税」を来年から大幅に縮小することを決定した。旧東独を取り巻く情勢は益々厳しくなることが予想される。ポスト・メルケル時代を迎える統一ドイツは、いろいろな意味で新たな歴史を始めることになるわけだ。

最後に、分断国家だった東西両ドイツの再統一問題は朝鮮半島を考える場合、参考になる点が多い。「南北朝鮮の場合」と「東西両ドイツの場合」では分断という点では同じだが、決定的な違いは前者は同民族間で戦争(朝鮮動乱)したが、後者は幸い、同民族間の戦争はなく、再統一を実現した点だ。同民族で戦争した分断国家の場合、再統一は一段厳しいだけではなく、「その後」もさまざまな後遺症が出てくるのだ。

死者20万人、難民・避難民約200万人を出した戦後欧州最大の戦争だったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でデートン和平協定(1995年)が締結された後も依然、完全な統一国家を建設できないで苦慮している。イスラム系、クロアチア系、セルビア系の3民族間で内戦を繰返したために、戦争が終わった後も本当の和平が実現できないのだ。ウォルフガング・ぺトリッチュ元ボスニア和平履行会議上級代表はそれを「冷たい和平」と呼んでいた(「デートン合意後の『冷たい和平』」2010年11月17日参考)。

旧東西ドイツの再統一はある意味でラッキーだった。旧西独が欧州一の経済強国であったために、旧東独を吸収できるパワーがあったからだ。ただし、「2等国民」という感情から旧東独国民が完全に解放されるためには、東西間の経済格差はクリアされなければならない。同時に、ドイツが欧州の統合に積極的に関与していけば、旧東独国民の「2等国民」といった思いは自然に消滅していくのではないか。旧東独時代を経験していない若い世代が広がっていけば、「2等国民」といった感情は歴史書のなかでの話となるだろう。

第2次世界世界で戦争責任を問われてきたドイツにとって「新たな国家目標」という課題は難しいテーマだが、戦後75年を経過した今日、ドイツは世界の平和構築のために積極的に貢献することが願われている。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年9月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。