「放浪の民」ユダヤ人の故郷はどこ?

2020年09月21日 11:30

ナチス・ドイツ軍が1938年3月、オーストリアに侵攻し、併合する前、ウィーンに住んでいた多数のユダヤ人が英国や米国に逃げた。精神分析学の創設者ジークムント・フロイトは1938年、英国に亡命したが、その1年後、ロンドンで亡くなった。逃げられなかった数万人のユダヤ人は強制収容所に送られ、そこで殺された。生き残ったユダヤ人は数千人に過ぎなかった。

▲「ホロコースト記念館」の犠牲者の名前と写真を連ねた部屋(ウィキぺディアから)

▲「ホロコースト記念館」の犠牲者の名前と写真を連ねた部屋(ウィキぺディアから)

最近、ウィーンから米国に亡命した後、ウィーンを忘れることができずに戻ってきたというユダヤ人の話を聞いた。そのユダヤ人曰く、「ウィーンの文化的華麗さや文化の香りを忘れることができなかった」という。米国には自由があるが、文化の香りはない。ウィーンにはそれがあるというのだ。

その話を聞いて、ユダヤ人が心を惹かれる文化の香りとは具体的に何だろうかと考えた。フランスの作家、ロマン・ロラン(1866~1944年)は「ベートーヴェンの生涯」の中で、「ウィーンは軽佻な街だ」と書いていた。その評価は100年以上前のものだが、当方は不思議と「そうだよな」といった共感を覚える。長く住んでいてもウィーンは当方にとって異郷の街なのかもしれない。

英誌エコノミストの調査部門「エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)」が毎年発表している「世界で最も住みやすい都市ランキング」で、オーストリアの首都ウィーン市が「第1位」の名誉を獲得したというニュースを聞く度にちょっと違和感をもつ1人だ。

そのウィーンから追われて米国に亡命したユダヤ人がウィーンの歴史的な文化の香りを忘れることができず、ウィーンに戻ってきたというわけで、正直言って軽い衝撃を受けたほどだ。

オーストリアのオバーエステライヒ州出身のアドルフ・ヒトラーは1907年、08年、ウィーン美術アカデミーの入学を目指して試験を受けたが、2度とも落第した話は有名だ。もしヒトラーが美術学生となっていれば、世界の歴史は違ったものとなっていただろう。そのヒトラーはウィーンを「多様な人種が住むバビロンのような街だ」と嫌悪感を吐露している(「ヒトラーを不合格にした教授」(2008年2月15日参考)。

ウィーンは中世時代から多くのユダヤ人が住んできた。紛争があった地域からウィーンに逃げてきたウクライナ系、ロシア系ユダヤ人も少なくなかった。ナチス軍がオーストリアに侵攻する前に国外に逃げることが出来たユダヤ人はラッキーだった。

そして米国に逃げていたユダヤ人は戦後、ウィーンに戻りたくなるという。自分や家族を追っ払い、多くの知人、友人を殺した街の文化の香りを忘れることができないという感情は非常にアンビバレントだ。

作詞:谷村新司、作曲:堀内孝雄のヒット曲「遠くで汽笛を聞きながら」の歌詞の中に、「何もいいことがなかった街」という台詞がある。多くのユダヤ人にとっては文字通り、「何もいいことがなかったウィーン」と感じたとしても本来なにも不思議ではないはずだ。

亡命先からウィーンに戻ったもう1人のユダヤ人の話を知っている。彼女の名前はエリザべト・フロインドリヒ女史(Elisabeth Freundlich)だ。彼女の家族は1938年、スイスのチューリヒ、フランスのパリ経由で米国に亡命した。米国で知り合った夫は有名な哲学者ギュンター・アンダースだ。彼は日本でも反原爆運動指導者として良く知られている。彼は生前「原爆の投下はホロコーストと同じく最大限の非人道的な行為だ」と述べている。

フロインドリヒ女史はナチス・ヒトラー政権が敗北すると直ぐにウィーンに戻った。彼女はウィーンに戻った理由を「ウィーンは私の故郷。戻ってくる権利はあるわ」と述べたという。その話は有名だ。著作家となった彼女は「ウィーンの街をもっとよくしたい」と常に語っていたという。

1906年7月21日、ウィーンで生まれ、スイス、フランス、そして米国と亡命先を転々しながら、1950年にウィーンに戻り、そこで作家活動を始めた。そして2001年1月、ウィーンで亡くなった。

彼女は「ウィーンは私のハイマート(Heimat、故郷)」と口癖に語っていたが、ディアスポラのユダヤ人は放浪と迫害の繰返しの歴史だった。ユダヤ人がいうハイマートとは何を意味するのだろうか。彼女の故郷は家族や知人、友人が殺害された思い出が染み込んだ地だ。

ユダヤ教では「神もユダヤ民族と共に放浪している」といわれ、ハイマートはモーセの5書を運ぶ幕屋であり、「運ばれる故郷」という表現があるほどだ。迫害されてきたユダヤ民族には通常の地理的な意味のハイマートの代わり、神と共に亡命し、移動する故郷があるというのだ。

フロインドリヒ女史は自分の民族を虐殺したヒトラーの母国オーストリアの首都ウィーンを自分の故郷と主張し、それだけではない。そのウィーンをより良くしたいという理想主義的な思いを抱いて生きてきた。また、ウィーンの文化の香りに惹かれ亡命先から戻ったユダヤ人など、多数のユダヤ人が戦後、亡命先から戻ってきた。それぞれに独自の歴史があり、戻ってきた理由も多種多様だろう。上記の2人の例はたまたま当方が聞き、知った話だ。

ちなみに、ウィーン市22区にはフロインドリヒ女史の名をつけたElisabeth-Freundlich-Weg(エリザべト・フロインドリヒの道)がある。一度その道を散策したいと思っている。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年9月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。

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